春 の 嵐 @ A B C | |
最後に揺れたのは、どろどろの山道からきれいに舗装された広い道に戻った時だった。息も絶え絶えだった乱太郎は、周りを見ることも儘ならずに再び担ぎ上げられて運ばれた。やっと息を付けたのは、病院の待合室に有る様な椅子の豪華版に座らせて貰った時だった。まだ、目が回って吐き気がする。 「大丈夫か?」 そう聞いてくれたのは第三共栄丸だった。 「わしもなぁ。あいつらのあの運転だけは慣れなくてなぁ」 と、苦笑している。鬼蜘蛛丸が紙コップを差し出してくれた。受け取って一口飲んでみるとレモンスカッシュだった。酸味と炭酸で、少しだけ気分がすっきりする。 「此処、何処ですか?」 見回した建物は、床も柱もぴかぴかに磨き込まれた木造建築である。ゆったりとした空間は高い天井と広い廊下の所為らしい。 「なんだ、知らんのか。此処は…」 「おーい、来客名簿に記入してくれー」 言い掛けた言葉は大木の呼び声に遮られた。行ってしまった二人を見送って、乱太郎は見るともなしに辺りを見回していた。瀟洒な内装と上品な家具は、利吉と遊びに行った時に一度だけ見た事がある、鹿鳴館風というのに似ている。そんなことを暈りと思って居る内に、皆がどやどやと戻って来た。 「お、こっちだそうだ」 結局、此処が何処なのか教えて貰えないまま、廊下を歩き出した。廊下の壁は腰板から上は真っ白な漆喰塗りで、片側には窓があり、すでに夕日が差し込んでいる。間隔を置いてある両開きの扉は、簡素だが丁寧な飾り彫が施してあり重厚だ。大木と野村は慣れた様子でどんどん歩いて行く。やがて現れた曲がり階段の手擦りもその支柱も洒落た木造りで、乱太郎はなんだか別の世界に入り込んでしまったような錯覚に陥った。段の少し低めの階段を上って直ぐの扉に、なにやら張り紙がしてあった。真っ白な上質紙に流麗な墨文字で『控え室』その隣の扉には『保護者様控え室』と、書いてある。 「おお、此処じゃ。まぁ、じきに始まると思うがな。此処で少し待って居れ」 「始まるって、何がですか」 泣きたい気持ちで、今日何度目かの質問をする。と、大木だけではなく、全員が驚いた顔をした。 「なんじゃ、聞いとらんのか」 「本当に知らないのか」 その言葉にこくこくと頷く。大木と野村は顔を見合わせ、それから視線を泳がせた。そういえば、昨日利吉は何も言っていなかった。律儀な利吉が、乱太郎の世話を任せるのに何の挨拶もしない訳が無い。大体、利吉が乱太郎の事に関して、他人に頼むという方が変しい。そうして、連絡してきたのは父親の伝蔵の方だ。こういう事態は推して知るべきだった。その時、小松田が乱太郎の肩を軽く叩いてにこにこと言った。 「乱太郎君は可愛いからね。心配しなくて大丈夫だよ。でも、モデルに選ばれるなんて凄いよねぇ」 「モデル…?」 「うん。は…っ」 小松田の言葉は第三協栄丸の手で塞がれて途切れた。その隙に、大木がすばやく乱太郎をドアの中に押し込んだ。 「あっ!」 「と、言う訳じゃから」 「心配するな。写真を取るだけだ」 「私達が付いていますから」 付いていたからといって、一体何の役に立つと言うのだろう。乱太郎は目の前で閉まった扉を恨めしげに見た。 溜め息を一つ付いて部屋の中に向き直る。と、何人かの子供が幾つもある椅子に好きなように座っていた。乱太郎も座ろうと、端っこの椅子に手を掛けてから、挨拶をした。 「こんにちは」 と、近い所に座っていた二人が、乱太郎を見てにっこりと笑って言った。 「あら、ごきげんよう」 「ごきげんよう」 その言葉に、乱太郎は固まってしまった。『ごきげんよう』と言うのは、挨拶なのだろうか。その、乱太郎の様子に、前髪を揃えている気の強そうな目許をしている子が小さく笑った。 「貴方、お名前は?」 「い、猪名寺です…」 聞かれて思わず答える。結婚はしているものの、中学を卒業するまでは猪名寺の姓を使う事になっているのだ。 「ふぅん。猪名寺さんも、此処にいらしたんだから、はぐにご入学なさるお積もりなのよねぇ。御後見はどちらなのかしら」 「ご、御後見って…?」 「いらっしゃらない筈は無いでしょう?はぐに入学するには必要ですもの。それともどなたかの口利きでお入りになるのかしら」 探るような目で見られて、乱太郎は困惑した。御後見て、一体誰を指すのだろうか。自分の両親だろうか、否、貧乏を絵に描いたような両親である。御後見、なんて、そんなものとは縁が無い。利吉はどうだろう。事実上の夫であり、現在の保護者でもある。可能性は有る。山田のお義父さんは、利吉の会社の系列会社の、何とかと言う所の支店長だった。これも可能性はある。そう言えば、大木達も可能性は有る。何しろ自分を此処へ連れてきたのだから。 「えっと、あの…」 「あらあら、ご自分の御後見の方もお分かりにならないの。おかしな方ねぇ。じゃぁ、どちらの初等部のご出身なのかしら?」 「えぇっと…」 初等部って、何だろう。変な言葉遣いで、何を言われているのか良く分からない。それに、どうしてこんなに突っかかられなければ成らないんだろう、と、乱太郎は困惑する。 「お止めなさいよ、兵太夫」 その時、奥に座っていたポニーテールの子が言葉を挟んだ。 「きり丸さん…」 その名前に、乱太郎もそっちを見た。確かにきり丸だった。以前、大木に連れられて行った家で、一度だけ会ったことがある。大きなお屋敷に一人で暮らしている、自分とは違う世界に住むことになってしまった、同じ年の子。 「その子の事は知っていてよ。大川の本社の関係でいらっしゃるの。大川グループの事はご存知でしょう?変に絡まない方が良ろしいんじゃなくって?」 柔らかな物言いだが、笑顔の下にはしっかり棘を隠していた。その言葉に兵太夫と言う子はたじろいだ。 「あら、そうでしたの。でしたらそう仰れば宜しかったのに」 詰まらない、とでも言うように兵太夫は乱太郎に背を向けた。きり丸が立ち上がり、乱太郎の隣に座った。そうして小声で話しかけた。 「こんな所で会うとは思わなかった。どうして此処に来たの」 「どうしてって言われても…。今日、いきなり連れて来られたんだもの。私の方が聞きたいよ」 「そう。知らないならその方が良い。写真を撮るだけだしね。聞きたかったら後で家の人に教えて貰った方が良いよ」 そう言って皆はぐらかすんだから、と乱太郎は心の中で呟いて。僅かに口唇を尖らせたのを見て、きり丸がくすりと笑った。 「兵太夫の事は気にしないで。悪気はないんだ」 「あれで?」 思わず聞き返したことで、乱太郎は自分がかなり怒っているのだと気が付いた。きり丸は軽く肩を竦めただけだった。 「気に入ったんだよ、乱太郎の事。だから色々聞いたんだ。仲間に出来るかどうかね」 「そんなことしなくったって、友達にはなれるじゃない」 「そういう訳には行かないんだ、此処ではね」 「此処ではって、」 どういう事?と聞こうとした時にノックの音がして、入り口の扉が開いた。思わずそっちを見ると、同じ顔、同じ格好をした人が二人、立っていた。 「皆さん、ごきげんよう。今日お世話をさせて頂く、三年の不破と鉢屋です」 「皆さん、ごきげんよう。遅くなってごめんなさいね。用意が出来ましたから此方へいらして下さるかしら」 「ごきげんよう。宜しくお願い致します」 二人の言葉に、きり丸と兵太夫ともう一人が立ち上がり、お辞儀をする。乱太郎たちも慌てて同じようにお辞儀をする。 「あらあら、お可愛らしいこと。では付いていらして」 にっこりと笑った二人は同じ動作で部屋を出て行く。慌てて後を付いて行く乱太郎に、先刻まで兵太夫と喋っていた子が近付き、小声で話しかけて来た。 「先刻は兵太夫が失礼なことを言って御免なさい。悪気はないんだけど、一寸いろいろ有って用心深くなっちゃってるんだ。あ、ボクは団蔵っていうんだ。宜しくね」 「気にしてないから平気。私、乱太郎。宜しくね」 にこにこと笑い掛けられて、乱太郎も釣られて笑い返す。初めは吃驚したけれど、そういえばきり丸と初めて会った時も確かこんな感じだったことを思い出した。あの時、きり丸の態度をフォローしたのは大木と、先生と呼ばれている男の人だったけれど。と、言う事は、此処に居るのは皆きり丸が住んでいるような世界の人なのだろう。だったら、自分には分からない事だらけでも仕方が無い。 「ね、あの子は?先刻から黙ったままだけど」 後ろからのんびりと付いてくる子は、にこにことしているばかりでまだ一言も喋っていない。団蔵も首を傾げている。 「さぁ、分からないな。僕達とも話をしてないから」 そんなお喋りをしているうちに、目的の部屋に着いたらしい。部屋の中には衝立で仕切られたスペースが人数分作られていて、同じ顔をして居るのでどちらがどうなのか分からない三年生が、それぞれを案内してくれた。仕切りの中には机と籠があり、机の上には大きな箱が置いてあった。箱を開けてみると服が入っている。どうやらそれに着替えるらしい。 「着方がお分かりにならなかったら、遠慮なくお声を掛けてくださいね」 「はい。ありがとうございます」 先刻のきり丸を真似て丁寧にお辞儀をすると、衝立が閉められた。乱太郎は少し躊躇ってから、箱の中の服に着替え始めた。ブラウス、チェックのプリーツスカートと揃いのベスト、黒い靴下、そして靴までが、ぴったりのサイズだった。短い髪にリボンを結び終わった時、隣の仕切りから声が聞こえてきた。三年生の声だ。 「まぁ、喜三太さん、どうなさったの?何を探していらっしゃるの」 「あのね、大切なお友達がいなくなってしまったの」 「あら、お友達が?」 「はい、此処に入れてきたんですけど…」 一瞬の間の後には物凄い悲鳴が上がり、次いでガチャンと何かの割れる音が響いた。何事かと衝立の間から顔を出すと、皆は隣の衝立に集まっている。 「わぁん、ひどぉーい」 という泣き声と共に衝立が開き、割れた瀬戸物の欠片としゃがみ込んだ喜三太が見えた。その喜三太が必死に必死に集めようとしているのは、ゆっくりと這い回る無数のナメクジだった。 そして、部屋は阿鼻叫喚となった。 |
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