春 の 嵐 @ A B C | |
何だか、朝から厭な感じがして仕方が無い。出張明けでは有るし、いっそ帰ろうかと思った時に、厄介事は持ち上がる。 「山田さん、三番にお電話です」 事務の女の子の声に、利吉は手近な電話を取り、三番を押す。相手は昨日までの出張先からだった。 「はい、お電話代わりました、山田です。ええ、どうも。先日はお世話になりまして…。はい。…はぁ、はい。はっ?動かない?ええ、はい」 どうもつくって来たシステムが動かないらしい。ああ、長くなりそうだ、と、利吉は内心で溜め息を付いた。 事後処理にはやはり時間が掛かり、利吉は電話口で格闘して、昼近くになってやっと事を片付けた。何の事はない。相手の初歩的な操作ミスである。何処をどうしたらあんなミスが出来るのかと思う程の初歩だったので、怒るよりも笑って電話を切った。意味も無く疲れ果てて、コーヒーを淹れて自分のデスクに戻ると、また、女の子に呼ばれた。 「山田さん、一番にお電話ですよ」 やれやれと思いながら、電話を取った。 「はい、山田です」 『利吉か』 「父上?」 意外な声に、利吉は思わず腰を浮かしかけ、慌てて座った。 「珍しいですね、父上が電話をくれるなんて」 『いやぁ、ほれ、そろそろ進学のことを考える時期だろう』 楽しげな伝蔵の声に、利吉は溜め息を吐いた。乱太郎との結婚には大反対だった伝蔵だが、いざ結婚して乱太郎に『お義父さん』と呼ばれた途端に相好を崩して、乱太郎可愛いに成ってしまったのだ。 「ああ、その話ですか」 今年小学校五年生の乱太郎は、中学校進学を控えた受験生、と言う事に成っている。今はこの学区の公立の小学校に通っているので、利吉は乱太郎の希望が無い限りは近所の公立の中学校で良いと思っているのだが、伝蔵は違った。 「あのお話はきっぱりとお断りした筈です」 伝蔵は、乱太郎を【はぐ】に入学させたがっているのだ。【はぐ】は知る人ぞ知る、少人数制の特殊な全寮制の学校で、何を隠そう利吉も【はぐ】の卒業生である。否、この会社の出世頭と言われている社員の大半は【はぐ】の卒業生であったり、関係者だったりする。その事も有って、この会社では関係の無い部署同士の、横の連携が異様にスムーズなのだ。 【はぐ】を卒業したと言うだけで、良くも悪くもその後の人生が大きく変わってしまうのだ。そこが、利吉が乱太郎を【はぐ】に入学させたくない理由の一つでもあった。確かに、【はぐ】で学ぶ事は好い事だとは思う。けれど、利吉は【はぐ】に関わらない人生と言うものを知らない。自分は【はぐ】の卒業生で、父も【はぐ】の関係者である。自然と回りも【はぐ】の関係者しか居なかった。だから、乱太郎には自分の知らない事を知って欲しいと思っているのだ。 そして、利吉が乱太郎を【はぐ】に入れたくない、最大の理由。それは、 「何だってあんな山奥に乱太郎を遣らなくちゃいけないんですかっ。私達は結婚したばかりなんですよっ!」 そう。【はぐ】があるのは交通の酷く不便な、とある山奥だったのだ。長期休暇しか帰ることが出来ず、しかも中等部、高等部、希望すれば他の場所に有る【院】と呼ばれる専門職を専攻する大学部への一貫教育なのだ。結婚したばかりの可愛い盛りの幼い妻と、何故、離れなくては成らないのかと、利吉は怒りを感じるのだ。 『いや、良い話があるんじゃよ』 伝蔵の声は妙に嬉しそうである。そういえば、この間0B会の方から、何か手紙が来ていたが、まだ読んでは居ない。 『実はな、分校が出来るんじゃよ』 「分校、ですか?それが何か」 利吉は苛立ちを押さえて声で聞き返す。たとえ、分校だろうと何だろうと、乱太郎と離れる積もりは無いのだ。 『それがな、寄宿ではなく通学制で、お前の住んどる街なんじゃよ』 「はぁっ?」 『ああ、とりあえず姉妹校という形でな』 思わず声を上げた利吉に、伝蔵は嬉しそうに続けた。 『否、分校となると何かと確執が出来るだろう。寮生活と通学では学べる事も違ってくるしなぁ。だから表向きは姉妹校という形なんだがな』 「それでも、お断りします」 きっぱりと言い切る利吉に、伝蔵の声が少し不機嫌になる。 『話は最後まで聞けぃ!本題は此処からだ。それで、その姉妹校の生徒募集のパンフレットを作る事になったんじゃよ』 「パンフレット…」 あの、校舎や学校案内、校風や生徒の制服なんかが載っている、カラーのアレである。 『それでなぁ、生徒のモデルの心当りはないかと聞かれたので乱太郎を推しておいたんだ』 「はぁ?」 『その撮影が今日だと言うんで、付き添いを雅之助に頼んだんじゃが、もう行ったかと思ってな』 「何ですって!」 大木が行ったという事は、洩れなくあの面子も一緒の筈である。厭な予感はこれだったのかと涙が出そうになる。 「なんだってそんな大事なことを今まで黙っていたんですかっ!」 『そりゃ、言えば反対するからに決まっておる』 胸を張って言われても困るのだ。だが、金曜日の今日、自分は会社である。そして乱太郎は、午前中だけなのだが、それを知っているのは自分だけの筈である。大木は学校に迎えに行ったのだろうか、それともマンションの方だろうか。取り留めも無く考えている利吉の耳に、追い討ちが掛かる。 『今日は学校が午前中だけだと言うし、丁度良かったよ』 「何でそれを知ってるんですかっ」 『何でって聞いたからだよ』 「誰にですか」 『猪名寺のご両親だよ。決まってるだろう』 否、決して決まってなど居ない。だいたい、なんだって其処へ電話をしたのだろう。また、否な予感がする。その利吉の心の叫びを聞いていたかの様に、伝蔵が言った。 『この間のモデルの話が決まりましたって連絡したら、たいそう喜んでくれてなぁ。驚かせたいから本人には黙っていてくれと頼んだから、お前も乱太郎も知らなかったのだ』 それは、乱太郎もびっくりしただろう。利吉だってあんまりなことに泣きたいのだ。乱太郎が泣いて居なければ良いのだが。 『それに、乱太郎の進学の事も有ったしなぁ。あちらのご両親も乗り気だったぞ、【はぐ】への進学は』 止めの言葉に利吉は思わず立ち上がり、受話器に向かって怒鳴りつけた。 「何でそんな勝手な事をするんですかっ!私達の事はもう放って置いて下さいッ!」 そう言って叩き付けるにして電話を切る。突然の怒鳴り声に、フロア中の視線が利吉に集まった。普段から冷静で、滅多な事では驚かないし声も荒げない利吉の罵声である。大きな溜め息を吐いて利吉が力なく椅子に座ると、閑と静まり返ってしまったフロアにざわめきが戻って来た。本気で泣きたかった。幸せになる為に結婚したのに、どうして誰も彼もが邪魔をするのだろう。今日はもう帰ってしまおうと決めた利吉が顔を上げると、其処には苦虫を噛み潰したような顔で無理矢理笑顔を作った専務が立っていた。 「山田君」 「はい」 「この仕事、今日中に頼むよ」 手渡されたのは、週明けまでに間に合わせれば良かった筈の仕事だった。 「先様が、日曜日に調整してしまいたいので、明日の朝一で欲しいと言われてねぇ。まぁ、無理なら良いんだが…」 「いいえ、大丈夫ですよ」 あからさまに遣れないだろうと言う口調に、利吉はにっこりと笑って言った。挑発に乗ってはいけないと思いつつ、何時も無理を言ってくるこの専務だけには、どうしても出来ないとは言いたくないのだ。 「じゃぁ、頼んだよ」 そう言ってフロアを出て行く専務の背中を見ながら、利吉は溜め息を付いた。どうせ帰った所で乱太郎は居ないのだから、仕事をしていたって同じ事だ。そう、心を決めて資料を開く。 だが、何故、専務は直接の上司でもないのに、何時も自分に仕事を持ってくるのだろうか。ふと、そんな疑問が利吉の中に生まれた。何気なく課長の方を見ると、さっと視線が泳いで在らぬ方を見た。利吉の頭に一瞬何かが閃き、直ぐに消えた。利吉は敢えてそれを言葉にすることはせず、資料に目を落とした。 「いぃぃぃやぁぁぁぁっ」 乱太郎は確り締めたシートベルトにしがみ付いて泣き声を上げていた。嫌な予感は的中して、乱太郎が乗せられたのは、車寄せに有った古ぼけたようなワゴン車だったのだ。 車が壊れるのではないかと思うほど物凄いスピードで高速道路をかっ飛ばし、インターを下りて直ぐに山道へと入った。最初はきれいに舗装された道だったが、道は次第に細くなり、とうとう舗装もしていない山道になってしまった。その上、道は酷く曲がりくねってでこぼこで、急だった。その山道を物凄いスピードで走っているので、急ブレーキ急発進は当たり前で、道に合わせて遠心力が掛かったり、車体が弾んだりする。 乱太郎は乗り物酔いも出来ないほど、怯えていた。 「わはははっ、ドライブは楽しいのう」 「馬鹿者っ!こっちを通るなら何故言わんのだッ!知っていれば私が車を出したのに!」 「なんじゃ、あのアメ車か?ダメじゃダメじゃ。このトヨタのハイエースは四駆じゃし、車検だって毎年通しておるわっ」 そう言って豪快に笑う。毎年車検を通している、と言う事はそれだけ古いと言うことである。なんとなれば、社用車を払い下げてもらった物だからだ。 「私のエヴァとこの車を一緒にするなぁっ!」 エヴァとは野村の愛車の名前で、フォード社のエクスペディション、エディーバウアーの略称である。 「何でも良いが、時間に間に合うのかぁ?」 「大丈夫じゃ。うりゃ、もちっと飛ばすか」 この道で、この車で、これ以上どう飛ばすのかと乱太郎は恐怖に涙を滲ませ、恨みがましい目で小松田を睨んだ。彼は山道に入った一つ目のカーブで早々に失神してしまったのだ。失神してしまえればどれ程楽だろう。そう思った瞬間、ふわっと車体が跳ね上がった。 「キャァァァァァッ!」 思わず悲鳴を上げたが、それでも乱太郎は失神できなかった。 |
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