春 の 嵐      「むつごい恋の物語」もご一緒にお楽しみいただけます。






 乱太郎は、いそいそと帰り道を歩いていた。今日は金曜日だったけれど、午前中で授業が終わりだったのだ。丸々空いてしまった午後に、何をしようかと考えるのは楽しい。
 お昼はじゃこのおにぎりを作る予定だった。この間貰った新物のじゃこはちっとも生臭くなく、柔らかくて美味しい。熱々のご飯に、そのじゃこと炒り胡麻ともみ海苔をたっぷりと混ぜて、醤油をちょっと垂らして握るのだ。今、乱太郎の一番嵌っている食べ物だ。そして、デザートにはプリンが待っている。昨日、出張から戻った利吉のお土産で、びっくりするほど美味しいのだ。
 そんなことを考えながらマンションに帰り着くと、車寄せの所に一台の古そうなワゴン車が止めてあった。お世辞にもきれいとは言い難いそれを、乱太郎は電気工事かなんかの業者のものだと思った。車寄せの所は基本的に駐車禁止なので、誰も乗っていない車が止まっている時は大抵業者のものだからだ。ただ、車体に何も書いていないのを不思議には思ったけれど。



 がちゃりと鍵を開けて中に入ると、ふわっと良い匂いが鼻を擽った。デミグラスソースの匂いである。あっ、と乱太郎の顔が綻んだ。利吉が帰っているのだ。今朝は一緒に出掛けたけれど、会社に顔を出してすぐに帰って来たのだろう。出張明けには時々有る事だ。利吉は時々そんな風にして自分をびっくりさせるのだ。嬉しくなって急いで靴を脱ぎ、リビングへと走り出す。
「ただいまぁ!」
 元気良く言った乱太郎は、リビングの入り口で固まってしまった。満面の笑顔は硬く引きつって、そのまま顔に張り付いた。
「おう、お帰り」
「あ、お帰りなさ〜い」
「早かったな」
 と、てんでに掛けられた野太い声と同様、むさ苦しい男達が好き勝手に座っていた。何時もはすっきりと広いリビングが、妙に狭く、暑苦しく見える。大木と第三共栄丸はネクタイを緩めて、煙草をふかしながら向かい合ってソファーに座り、将棋をしていた。しかも山崩しである。小松田が側で得点表を付けている。野村と鬼蜘蛛丸は、キッチンでがたがたやっていた。
『何でこの人たちが居るの…』
 乱太郎は引き攣った笑顔のまま泣きたくなった。玄関の鍵は掛かっていたし、学校が半日で終わる事は当然だが利吉にしか話していない。心の中に厭な疑念が浮かぶ。利吉が、この人達が自由に此処に入れるように鍵を渡したのだろうか。否、利吉に限ってそんな事をする筈が無い。利吉だってこの、傍若無人な、煩くて我雑でむさ苦しい人達を嫌がっていたではないか。だとしたら、一体誰が…。
「何を突っ立っておる。此処はお前の家だろうが。楽にしろ」
 そう言って大木がかっかと笑った。その時に膝を叩いた手がテーブルに当たり、将棋盤ががたんと揺れて山が崩れる。第三共栄丸が大声を上げた。
「ああーッ!」
「おお、すまんな」
 大声を上げて立ち上がった第三共栄丸に、大木はへらりと笑って謝った。
「酷いじゃないかっ、わしが勝ってたのに…。さては、態とだな!幾ら負けが込んでるからってそういう事をするのは良くないぞ」
「だから、すまんと言っとろーがっ」
「いーや、許せんっ」
「だからすまんって」
 だが、涙目になって尚も言い募られ、今度は大木も怒鳴り返した。
「やるか?」
「望む所だっ!」
 互いの胸倉を掴み合って低く言う。ああっ喧嘩が始まっちゃう、と乱太郎が耳を押さえようとした瞬間、二人は座って将棋の駒を分け始めた。
「えと、これで十七戦目も引き分け、と」
 脇で小松田がのんびりと言い、新しい得点表を広げた。この人たちは何時だってこの調子だけど、会社でもこうなのだろうか。ほっと安堵すると共に、乱太郎は溜め息を付く。
「乱太郎君、かばんを置いて手を洗って来なさい。じきに昼飯が出来るぞ」
「うがいも忘れないで下さい」
 きっちりとネクタイを締めたまま、持参のものらしい黒のエプロンをつけた野村が言い、割烹着を着た鬼蜘蛛丸が笑い掛ける。乱太郎は疲れた笑いを返して頷くと、肩を落として勉強部屋へと足を向けた。どうせこの人達に、話は通じないのだから何を言っても無駄なのだ。乱太郎は大きな溜め息を付いて、滲みそうな涙を手の甲で擦った。



 着替えをして、顔と手を洗い、うがいもしてダイニングに戻ると其処はきれいに片付けられていて、皆キッチンのテーブルに着いていた。ダイニングテーブルは八人掛けの大きなものだ。結婚したのだから両家が集まった時に困らないようにと、山田の家からの結婚祝いの品だったが、却って仇になってしまった感じがする。
 鬼蜘蛛丸が椅子を引いてくれたので、座る。スプーンとフォークと箸が並べられ、カップに入ったコンソメスープと、エビとホタテの小さなサラダが手早く置かれた。テーブルの中央には、アスパラとベーコンの炒め物や、じゃがいもとひき肉とチーズの重ね焼き、生ハムと春野菜のサラダ、山盛りのムール貝の酒蒸し等が大皿で並べられているのが、何だか胸焼けしそうなボリュームである。その時、じゃっと音がして、じきに乱太郎の前にメインらしい大き目の皿が運ばれてきた。
「あ、オムライス」
 ぱっと、乱太郎の眸が輝く。野村を見上げると、気に入ったか、と言う様に笑っている。
「子供はそーいうもんが好きじゃからのぅ」
 と大木が頷きながら言い、それから、眸をきらきらさせている小松田を見て、まぁ、大人も好きだがなぁ、と苦笑した。
 トマト味の炊き込みのチキンライスは具沢山で、可愛い花形に抜かれていた。その周りをデミソースが囲み、チキンライスの上には柔らかそうなオムレツが乗っている。野村が手早くオムレツにナイフを入れると、とろりとした半熟の卵が湯気を立てながらご飯を覆い隠した。おおっと、歓声が上がる中、卵のてっぺんに小さな旗をさしてくれた。
「冷めないうちに食べなさい」
「はぁい。いただきまーす」
 野村の言葉にありがたく頷いて、乱太郎はスプーンを取った。
「ボクのにも旗をつけてください」
 そう言ったのは小松田で、鬼蜘蛛丸がすかさず小さな袋を差し出した。
「好きなのを選んでいいですよ」
「わーい、嬉しいなぁ」
 楽しげに袋の中の旗を選ぶ小松田を、第三共栄丸がにこにこと眺め、わしも選ぼう、等と呟いているのを、乱太郎は見ない振りをした。



 結局、大人も全員、旗を立てたオムライスを食べた。勿論、他のおかずもきれいに平らげて。乱太郎はなるべく顔を上げず、自分の皿に集中した。大声で談笑しながら、嬉しそうに旗の付いたオムライスを貪り食うむさ苦しい男達と言うのは、余り見たいものではなかったからだ。それでなくてもオムライスを片付けるのは大変なのに、彼らは気を遣って居るのか、これを食え、そっちはどうだとしきりに勧めるのだ。利吉だったら、ちゃんと適量を盛りつけてくれるのだが、そうはいかなかった。
「多かったら残しても良いぞ」
 という野村の言葉に、乱太郎はフルフルと頭を振って、せっせとスプーンを口に運んだ。本当を言えば残したい。けれど、自分の手元や食べる様子を見ている視線がどうにも不穏なものに思えて、残すのが怖かったのだ。幾ら料理が美味しくても、なんとなく落ち着かない。つくづくと利吉が恋しかった。ゆっくりと進む食事と、落ち着いた穏やかなお喋り。気兼ねしないという事がどれ程素晴らしい事なのかを、乱太郎はしみじみと噛み締めた。やっとのことで、卵の最後の欠片を口に入れ、飲み込む。
「ご馳走様でした」
 スプーンを置いて、手を合わせる。美味しかったけど、もう当分オムライスは見たくない気分だった。たとえデザートがプリンでも食べられない。と、思っていると、小さな器が差し出された。
「口がさっぱりしますよ。どうぞ」
 と、言ったのはにこにこと笑っている鬼蜘蛛丸だ。仕方なくスプーンを取って口に入れると、柚子のシャーベットだった。見上げた時にはもう居なくて、キッチンで野村と一緒に後片付けをしていた。第三共栄丸と大木はだらしなくソファーに座って、煙草をふかして缶コーヒーを飲み、その側では小松田がカップアイスを食べている。
「おい、一つだけだぞ。腹壊すからな」
「分かってますよぅ」
 第三共栄丸の言葉ににこにこと答え、大事そうにアイスを食べている姿は、自分と大して変わらない年の子供の様だった。自分も良く利吉にそう言われて、茹でたとうもろこしを半分づつ食べるのだから。もっとも、あれだけ沢山の食事をした後に、腹を壊すも何もないような気がするのだが。
 後片付けも終わり、キッチンが元通りのピカピカになると、彼等はネクタイを締めなおしたり、スーツのジャケットを着たりと身支度を始めた。やっと帰ってくれるんだ、と、乱太郎は心底安堵した。いきなり居たのでびっくりしたし、暑苦しかったりむさ苦しかったり見苦しかったりと色々だったけど、お昼を一緒に食べただけなのだから、実害は余り無いと言っても良いだろう。何しろ今日は素面だったから、大声でがなりたてたり、調子ッぱずれの口カラオケ(しかも超懐メロ)を聴かされたり、無理矢理お酌をさせられたりしなかったし、何より、空気が真っ白になり部屋の壁が黄色くなるほど煙草臭いわけでも酒臭いわけでもなかったのだから。
 椅子に座ったままにこにこしている乱太郎に、身支度し終わった大木が近付いて来た。ネクタイを締め、きっちりスーツを着込むと、一応サラリーマンには見える。余り堅気には見えなかったが。一瞬、びくりと身を竦めた乱太郎に、大木が言った。
「何故仕度をせんのだ?まぁ、その格好でも充分可愛いが、上着位は着た方が良いぞ」
「仕度って、何ですか?」
 大木の言葉に、乱太郎は一瞬きょとんとし、次いで恐々と聞いた。仕度をすると言う事は、一緒に出かけなければ成らないのだろうか?この人達と?そんな事は真っ平ごめんだった。この人達と一緒に居ると碌な事に成らないのだ。だが、彼等は自然災害と同じで、避けようが無いという事も、今までの経験が、それを裏付けていた。
「ありゃ、言って無かったかの?昼飯を食ったら出掛けるって」
「聞いてないですよぅ、ぜんぜん」
「ま、今聞いたんじゃから良かろう。ほら、早く仕度せい」
 そう言って大声で笑い、乱太郎の肩をぱしぱしと叩いた。乱太郎が嫌だと言うなんて毛ほども考えて居ないのだ、この人達は。やっぱりこの人達が来て、無事に済む訳が無いのだ、と、乱太郎は泣きたいのを我慢して出掛ける仕度をするためにキッチンを出た。



 身支度をしてきた乱太郎は、あっという間に五人に囲まれてしまった。
「まぁ、こんな所か」
「もう少しフォーマルでも良いと思うが…」
「何も面接する訳じゃあないんだから、良いんじゃないか?」
「ボクは充分可愛いと思いますけど」
「そうさなぁ。素材が良いしのう」
「しかし、あの面子を考えると、やっぱり…」
「なぁに、始まっちまえば問題なかろう。肝心なのは素材じゃし」
「まぁ、それはぜんぜん問題なしですけどね」
「なら、問題は無かろうて」
 好き勝手に言い合っていたが、何とか良いだろうと言う事になったらしい。
「じゃ、行くかの」
 大木の言葉に、一同はいきなりじゃんけんを始めた。暫くあいこ続きで妙に熱くなっていたが、どうやら勝負が着いたらしい。野村がひょいと乱太郎を肩に担ぎ上げた。
「わぁっ、止めてっ!下ろしてよぅっ、利吉さん助けてっ!」
 驚いて泣き声を上げる乱太郎に構わず、野村は笑って歩き出した。
「はっはっは。この位の役得が無くてはなぁ。ただで飯を作っただけでは詰まらんからな」
「くそうっ。野村っ、貴様後出ししたろうっ!」
「それは貴様だろう?私は勝負にずるはせん」
「いやぁぁぁぁっ、下ろしてぇぇぇぇっ」
「ちと、静かにせんか。取って食われるわけではあるまいし…」
 これでは人攫いの様じゃないか大袈裟な、と大木が顔を顰める。乱太郎は本気で涙を滲ませて、しきりに野村の背中を叩いた。すごく怪しい。この人達だったら、自分など食べられてしまっても可笑しくは無いと、本気で怖くなる。
「利吉さぁんっ…!!」
「はははっ、野村よ、嫌われとるのぉ。どれ、わしに貸せ」
 大木の言葉に、乱太郎はぴたりと暴れるのを止めた。少なくとも、大木よりも常識人の野村の方が安全な筈だった。大人しくなった乱太郎に、野村は楽しげに笑って大木を見た。
「嫌われているのはお前の方だった様だな。はははっ」
「いいなぁ。共栄丸さん、ボクも肩車…」
「後でな」
「もうっ、共栄丸さんの後では出たことが無いんだから…」
 乱太郎の靴を持ちながら、小松田がぶつぶつと言った。大木は玄関の鍵を掛けてしまうと、その鍵を乱太郎の手に押し込んだ。
「ほれ、鍵だ。忘れんうちに返しておくぞ」
 はっとした顔をする乱太郎に、大木はニッと笑う。その鍵は、自分の物でも、勿論、利吉の物でもなかった。鍵が誰のものだったかを思い出そうとして乱太郎は大人しくなり、一同はそろってエレベーターに乗った。大柄な男五人の乗ったエレベーターはどうにも狭い上にむさ苦しく、また、子供を担いでいるので酷く怪しい。しかし、各階ごとに泊まる深夜でなくて良かったと安堵した者は、誰も居なかった。


→其のA                                     TEXT:利太郎様   


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