読書メモ

・「だれが信長を殺したのか 〜本能寺の変・新たな視点
(桐野 作人:著、PHP新書  \760) : 2008.03.23

内容と感想:
 
「だれが信長を殺したのか?」燃える本能寺の中で自刃したということになっているから 直接的には自殺ということになるが、本書はそんなトンチ話ではない。 本書は「本能寺の変」論争の終着点、決定版とも言える一冊。
 「真説 本能寺」では信長の四国政策の転換が謀叛の重要な動機を形成した、との説を展開していた。 本書でもその四国問題を更に追及し新たな知見が盛り込まれている。「おわりに」では前書はその論証が不十分な面があったと言っている。 また明智家の家中の動向に注目、特に家老・斎藤利三をキーパーソンだとしている。 更にこれまで知られていなかった光秀の文書を取り上げ、政変直前の光秀の心境にも迫っている。
 第1章では信長および光秀の人生の画期ともなった(変の2年前の)天正八年に注目し、二人にとってどんな年だったかについて述べている。 その上で、第2章ではその後の二人の相克と破綻に至るプロセスを具体的に辿っている。 第3章では信長の四国政策の転換が光秀を追い詰めたとして、その四国政策の変遷を辿っている。
 そして第4章でいよいよ利三の登場である。彼が「変の仕掛け人」だとしている。 利三をリーダーとする斎藤・石谷・蜷川の三家と長宗我部家とは濃密な親族・姻族関係が築かれていたが、 政策転換により長宗我部家との関係の見直しが迫られていた。利三らは関係維持にこだわり、光秀の謀叛に積極的に加担した、としている。 しかも稲葉家から数年前に明智家に鞍替えしていた利三はその問題で、変のわずか4日前に信長に自刃を命じられていた。 那波直治は稲葉家に帰参させられたが、なぜか利三は死罪だった。信長は四国政策に反対の利三を排除したかったのではないか、と私は考える。
 また終章でも書かれているように「明智(特に斎藤ら三家)と長宗我部の両家の結びつきは取次の役割を超え、織田権力の家臣団統制や戦国大名編成のあり方から逸脱」していたが、 信長も同じように考えていた可能性がある。追い詰められたと感じた光秀と家老の利三らの利害が一致し、ついに謀叛が決行された。 著者の説を読み終えて感じるのは、光秀は実は利三らにそそのかされたのではないかと。下から突き上げられて明智家中の統制も危機を迎えていたのではないか。 放置すれば利三らが暴走しかねない。光秀自身の身も危うかったかも知れない。光秀はそんな家臣への人情に心を動かされたのか、自らの博打心が動いたのか。
 山科言経が日記に利三こそ本能寺の変を起こした張本人だと書いているように、本書ではそれを論証しているとも言え、利三が首謀者であったことが見えてくる。

○印象的な言葉
・高柳光寿氏や桑田忠親氏の説は古典的地位を占めるが、光秀謀叛の理由を個人的な性格や感情に帰結させる傾向が強いという方法論上の限界が目立った
・謀叛が政治的行為である以上、その真相も政治的に究明されなければならない。人間性の問題にとどまらず、政治的動機や政治的背景を想定するべき
・信長の進める「天下布武」と光秀の目指すものが食い違ってしまったのか?
・本能寺の変は一般の歴史ファンや好事家の興味の対象として手垢がつきすぎ、研究者には敬遠された
・公武対立があったとは到底考えられない。左大臣推任や三職推任は公武協調の文脈で読み解ける
・藤田達生氏の説には義昭への過大評価がある。光秀が義昭を利用した形跡がない、義昭と毛利が共同歩調をとったように見えない。義昭を担ぐつもりもなかった。
・政変直前、愛宕百韻の当日に光秀が山陰の国人に宛てて書いた書状
・変の4日前に信長に自刃を命じられた利三(稲葉一鉄に諌言し、勘当され明智家に召抱えられた。那波直治も一緒だった)
・三日前でも挙兵は決断できていなかった
・変の前日、六月一日は日蝕(太陽の6割が隠れた)。京都の天気は晴れだった。日蝕や月蝕の光は不吉で穢れたものとされた
・近衛前久の実像は誤解されている
・イエズス会も変の被害者。彼らが黒幕なら事前に知らないのはおかしい
・天正八年の本願寺降伏により信長の統一権力が事実上成立。他の戦国大名は信長を上位権力として受け入れ接近するようになる
・信長の「天下」は自称もしくは人格との一体化を志向しながら(足利将軍を指す)「公儀」の上位概念に位置づけた。
・長宗我部元親は初めは摂関家・一条家出身の土佐一条氏を形式上戴いた体制で勢力を拡大していたが、天正九年には当主の一条氏を追放する
・元親は秀吉とも交流を持っていた。秀吉との取次ぎをしていたのは利三
・秀吉の毛利水軍調略により瀬戸内海東半の制海権を確保することで、信長には元親の利用価値が著しく減じた。当初は元親も毛利家包囲網の一角に位置づけられていた。
・信長は元親の四国制覇にブレーキをかけようと強攻策に転じた。政権本拠地・畿内の下腹に位置する四国に強大な外様大名を望まなかった
・信長の新たな四国国分令を元親は拒絶。7年近く取次役として関与していた光秀は面目を失う。仕事を果たせなかったことになる。元親を一種の与力大名としようとしていた。
・信長は初め信孝を筒井順慶の養子にしようとしていたが、大和国は武家にとって縁起が悪いとされており、思いとどまった
・勝家や光秀など信長家臣の国持ち大名に、信長はあくまでも国を与えたのではなく、「預け置いた」という認識
・本願寺降伏により膨大な余剰軍事力が生じた
・山科言経は日記に利三こそ本能寺の変を起こした張本人だと書いている。利三の義妹が元親に嫁いでいた
・利三をリーダーとする斎藤・石谷・蜷川の三家と長宗我部家との濃密な親族・姻族関係。両家中の分裂・解体の危機。三家が結束して光秀の意思決定に影響力を行使
・作歴問題:東西で異なる暦が流通していることは我慢ならない。統一権力のもとに暦も統一するのは当然
・誠仁親王は自らは信長に擁立されたという強い自覚があった。変により天皇即位は遠のき、実現しないまま変の4年後に病死
・吉田兼見の日記は天正十年だけ別本と正本がある。別本には自分に都合の悪いことが書かれていたとされるが、処分されず保存されたのは抹殺するほどの内容でなかったから
・史料的根拠がないのに論証できたことにはならない
・光秀も元は外様の家来。それゆえにドライな主従観念が謀叛のハードルを低くした

-目次-
第1章 信長と光秀の天正八年
第2章 破断への予兆
第3章 光秀を追いつめた信長の四国国分令
第4章 本能寺の変の仕掛け人、斎藤利三
第5章 「不慮謀叛」ついに決行さる
終章 本能寺の変とはなんだったのか