読書メモ

・「真説 本能寺
(桐野 作人:著、学研M文庫 \690) : 2007.11.18

内容と感想:
 
この手の本で、これまでに読んだ中で一番、腑に落ちて、納得性の高い良書。
 冒頭に書いているように(従来の謀叛の真相の諸説にある) 「あらかじめ都合のよい史料だけで予定調和的に仮説を構成する傾向を排して、同時代の一次史料に基づいて客観的に検証し確定」したと、 本書に賭ける著者の意気込みが伝わってくる。
 第四章では 「光秀のように優れた政治能力や軍事統率力によって、織田権力のなかに有力な地位と基盤を築いてきた大名が 自分の感情だけを行動基準にするのはまずありえない。」と断言する。 謀叛の真相を個人の感情や性格のみで分析するのは限界があるのだ。それだけで推測するのは幼稚だとも言える。 そこで著者は謀叛の背景に政治的要因や政治的背景を想定し、重視している。 光秀と信長の間で、または他の同僚との間で何らかの利害対立や確執・抗争があった、としている。
 第五章には 四国政策の転換により、光秀だけが割を食う結果となったが、 信長は光秀の不満と危機感を軽視した。それが変の油断となった、と結論付けている。 光秀は政策転換の再考を信長に迫ったが撥ね付けられたのでは?と著者は推理する。 家康の接待役を突如、免じられたのも彼に対する懲罰、そして中国出陣の命令も四国への関与からの排除のため、 との推理は冴え渡っている(目から鱗とはこのこと)。
 かなり意外だったのは、「最後に」でまとめられているように、謀叛の背景に三男・信孝の存在が大きいことを指摘している点である。 私はこれまで信孝の存在を重要視していなかったから、なお更である。 そして光秀は将来の展望を見出せなくなり、地位の低下も避けられぬと判断し、謀叛に飛躍あるいは、短絡した。
 もし光秀が秀吉の中国攻めが時間の問題で確実な情勢だと知っていたとしたら(予想できたと思う)、 四国が駄目でも、著者が最後に書いているように、次は「九州で軍功を挙げて失地回復を図る方途もあったのに」と 私も感じた。「惟任日向守」と九州を意識した名前も持っていたはずなのに(自覚が足りん!)。 最早、その心境になれる状態ではなかったのかも知れない(今風に言えばキレた?)。 これが秀吉だったら開き直って、「一から出直しだ」くらいなことは言っただろう。そこが二人の違いなのかも知れない。
 巻末に参考文献として列挙した史料、辞典・事典も数多く、著者の研究への力の入れようが分かるし、本書の精度の高さも感じられた。

○印象的な言葉
・謀叛を起こした人間の内面などのぞけるはずがない。当人がそれを文字に書き残すことなどありえない
・主殺しや謀叛人は少なからずいる
・光秀の謀叛動機は信長への怨恨、天下への野望、現状への絶望、などの複合。心理の複雑さ。心理の多面体
・光秀の主観的心理だけでなく、客観的存在、政治的な人間としての彼を解剖する必要性
・信長が甲州出陣から安土に帰った当日、安土に彗星のようなものが落下した
・当時、公家衆が戦場に従軍するのは珍しい現象ではない
・家康・梅雪への接待は彼らへの並々ならぬ厚遇を示す
・三男・信孝は木曽義昌の調略に実績あり。彼の扱いが二人の兄に比べて冷遇気味だった
・信長は上京を敬遠して下京への宿泊を好む
・変の前夜、信長が観戦した囲碁の大局は珍しい「三劫」(さんこう)となり勝負つかず、となった
・本能寺に運び込まれた茶道具の名物は多数に上り、多くの名物が変により灰燼に帰した
・変の前日(六月一日)は日食だった(10分の6の部分蝕)
・日食や月食の光は不吉で穢れたものとされていた。日食や月食を事前に知るのは暦道家や天文博士の役割だった。 この日の日食を京暦は予測できなかった?
・光秀は安土城に先立つ4年前に天守閣のある坂本城を普請していた
・連歌は邪気を祓う呪術的な面もある。戦勝祈願の儀式でもあった
・当時、誠仁親王が事実上の天皇である認識が広まっていた?
・信長の五男・勝長は武田勝頼の人質になっていたが、和睦を望んでいた勝頼は彼を安土へ送り返していた
・アフリカから奴隷として連れて来られていた黒人ヤスケは変の際も生き延びていた。その後の運命は不明
・変の後、光秀は秀吉の動向をしっかり把握していなかった
・秀吉に変を急報したのは長谷川宗仁。京都商人、茶人、信長の家臣。わずか2日で急報が届いた。海路によってか?
・安国寺恵瓊は小早川隆景や吉川元春に無断で清水宗治に切腹を勧めた
・もともと和睦を提案していたのは毛利方だった。戦争継続の余力がなかった
・謀叛とはすぐれて政治的(=軍事的)行為
・当時、律令的天皇=朝廷はその権能をほとんど喪失し、元号制定権と官位授与権のみを残していた
・正親町天皇は譲位を望んでいた。信忠の右大臣・右大将への昇進と譲位をセットの政治日程を考えていた?
・中世の日本には誕生日を祝う習慣はほとんどなかった
・当時、誠仁親王がいた二条御所の地位・機能は正親町天皇の禁裏よりも大きかった
・変の後、信孝は近衛前久の成敗を触れ回っていた。彼を光秀の与党だと考えていた
・吉田兼和(兼見)は光秀とも親密だった。「兼見卿記」にも交流の記録が多い
・兼和は変の前日、信長への礼問に訪れていない。あらかじめ謀叛を知って巻き込まれるのを避けた?
・五月十七日前後、兼和は光秀と信長の間に起きた確執を知った?
・信長の3人の息子の間の対立・競合関係が本格化していた。みな20代半ばの血気盛んな年頃。
・斎藤利三は四国政策の転換に強硬に反発したはず。光秀は利三の強硬論に引きずられた?

-目次-
第1章 本能寺の変への道程
第2章 本能寺の変 ―信長・信忠の最期
第3章 十三日天下 ―光秀の最期
第4章 信長と朝廷 ―公武対立の虚構
第5章 信長と光秀 ―織田権力の軋轢と瓦解