読書メモ
・「武田信玄の古戦場をゆく―なぜ武田軍団は北へ向かったのか?」
(安部 龍太郎:著、集英社新書 \660) : 2007.03.24
内容と感想:
信玄が5度に渡り信州・川中島にて謙信と合戦を繰り広げたことは有名であるが、
著者はなぜ信玄がそれほどまでに北進にこだわったのか疑問に思っていた。
結局、生涯の大半を費やしたにもかかわらず日本海に出ることは叶わなかった。
実際に日本海側までの領地を得ることが目的だったかどうか信玄の頭の中は分からない。
しかし、その目的は状況から判断して港を確保し、海運により交易したいという点にあったのだろう。
著者は信玄は日本海に出て海路にて上洛しようと考えていたと仮説を立てた。
本書は著者がその仮説を検証する旅の記録。「戦場の山城をゆく」の続編に当たる。
信玄がたどった道を訪ね、各地の城跡や戦場跡にて当時に思いを馳せる。また滞在地での食事や温泉などの
楽しみにも触れた旅行記になっている。
結局、強敵・謙信に幾度となく北進を阻まれている内に、信長が上洛を果たすと、信玄は北進を諦め、
今川義元なき駿河に攻め入り、やすやすと駿府を占領し、太平洋進出を果たす。その後、信長を討つべく陸路、
京都を目指すがその途中で死を迎える。上洛の夢は果たせなかった。それは謙信も同じであった。
川中島の戦いを初め、信州には信玄や謙信の足跡が多く、本書には私が知る地名も多く出てくるため身近に感じながら読むことができた。
○印象的な言葉
・南進して太平洋に出るのは可能だったが、後に今川を攻めるまでは律儀に同盟を守り続けた
・武田氏の一族は鎌倉時代から対馬、安芸、遠江の守護、室町時代には若狭の守護も任じられていた
・奥州の南部氏も武田氏の末流。
・信玄の初陣は海ノ口城ではなく海尻城ではないか?
・甲斐から日本海に出るには諏訪から松本に出て、糸魚川沿いに下るのが最も近い
・現代日本がモラル崩壊しているのは理想を捨てて現実に屈服した者が価値観を再構築する試練に直面することなく社会の中核を担うようになったから
・四、五千年前、日本が今より十度ばじかり気温が高かった頃は諏訪のような高地や東北のほうが住みやすかった
・出雲族が鉄剣の原料となる良質の鉄を求めて諏訪まで進出
・佐久は古くから朝廷の御牧がおかれた良馬の産地。領主の多くは甲斐源氏
・千曲川の東側の豪族は上州の豪族との関係が密接。関東管領の上杉に臣従するものも多かった
・村上義清の村上氏と瀬戸内の村上水軍は同族。千曲川水運の利権を握っていたに違いない
・日本のピラミッド・皆神山(長野市)。岩戸神社がある。天の岩戸があったと言われる。世界中の神が集まるという神話。
・かつて直江津には越後の国府があり、越後の中心地、日本海航路の主要な港。
・春日山城は平山城。石垣をほとんど用いない。戦国初期の関東の築城術の影響
・謙信と近衛前久は関東管領として関東を切り従え、その軍勢で上洛し足利幕府再建を目指していた
・四、五万年前から野尻湖周辺には人が住み着き、ナウマンゾウを狩っていた
・謙信の出陣回数は際立って多く、活動範囲も広い。二度も上洛。無敗。春日山城に攻め入られたこともない。
その軍事行動を支える経済基盤もしっかり確立されていた
・謙信は北条氏の小田原城も攻めたが信玄に上州・箕輪城を取られた後は関東進出を断念
-目次-
第1章 信玄出生の地、要害城
第2章 非情の侵攻、諏訪上原城
第3章 骨肉相食む、佐久侵攻戦
第4章 宿敵、村上義清との戦い
第5章 両雄激突、川中島
第6章 信玄、信越国境に迫る
第7章 夢破れ、謙信と和す
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