読書メモ

・「戦国の山城をゆく―信長や秀吉に滅ぼされた世界
(安部 龍太郎孝:著、集英社新書 \680) : 2006.11.03

内容と感想:
 
山城(やまじろ)は戦国時代、鉄砲という新兵器の登場で要塞としての機能を失い、 信長が天下統一を進めていくに従ってその役割を終え、城の形態は平山城や平城(ひらじろ)などに変わっていった。 その天下統一への歩みの中で破壊されていった12の山城を著者が訪ねた紀行文である。(いずれも取材の日の天候がなぜか悪いのが特徴) 中には比叡山延暦寺や根来寺など寺が含まれているが、それらがなぜ山城なのかは読めば分かる。
 「まえがき」によれば、山城は家臣や領民を避難させるシェルターとしての役割も荷っており、そのため里に近い要害の地が選ばれたという。 従って地元の人間にすれば城は団結のシンボルであり、心の拠り所だったとも言える。 だからこそ時を超えた現代でも遠い昔の領主を偲んで、城を改修したり、祭りを行なったり、観光にも利用したりするのだろう。
 本書は山城がテーマだが、「戦国時代史が陸路中心の史観によって語られてきた」(第十一章)という記述は、戦国史の違った見方の存在を示唆している。 本書でも取り上げられているように海運を原資にのし上がった海民型の大名・信長や、日本海交易の朝倉氏、琵琶湖水運の浅井氏、雑賀(紀州)と薩摩の太平洋航路のつながり、 瀬戸内海や大阪湾の水運を押さえていた三好家などの多くの史実を見れば、いかに水路も重要であったかを認識させられる。
 老後には城巡りをしたいと考えているが、本書を読むとますますその思いが強くなる。

○印象的な言葉
・織田家は木曽川下流の港町・津島を拠点に伊勢湾の海運で利益を上げていた。海民型の大名。
・信長は岐阜城(当時は稲葉山城)を攻略し、美濃を手中にしたとき、その山頂からの眺望に接して”天下”を実感したのではないか
・信長は家臣の次男坊や三男坊を集めて親衛隊を作り上げた
・日本三大山城:岩村城(東美濃)、高取城(大和)、松山城(備中)
・東美濃の最大の利権は木曽の木材
・日本五大山岳城:観音寺城(近江)、月山富田城(出雲)、七尾城(能登)、春日山城(越後)、八王子城(武蔵)
・義昭を奉じて上洛し、近江まで領有できたのは信長には予定外だった。近江よりも伊勢攻略のほうが優先度としては高かったはず
・琵琶湖に浮かばせた大型船は宣教師から西洋の造船技術を導入して作らせたのではないか?
・最盛期の越前・朝倉家の勢力は加賀、美濃、北近江、若狭まで及んでいた。その経済基盤は三国湊を拠点とした日本海交易。朝鮮、中国とも交易していた。
・信長は朝倉氏を滅ぼすことで日本海交易、東アジア貿易においても独占的な地位を占めた
・浅井氏は琵琶湖の水運を大きな収入源としていた
・信長包囲網の陰の黒幕は近衛前久
・松永久秀の悪行として語られる奈良・東大寺の大仏殿の放火は、久秀の手によるものではない
・紀州に鉄砲が伝わったのは種子島に鉄砲が伝来した翌年のこと。紀州と薩摩は黒潮という海の道で結びついていた
・丹波八上城攻めで光秀が母親を人質に送り、その母親が磔にされたのが本能寺の変の原因と言われているが、光秀には圧倒的有利な戦況であったことから、説が疑問視されている。
・江戸時代にも旅行ブームがあり、ガイドブックも多く作られた
・本能寺の変当時、光秀は四国の長宗我部とも綿密に連絡をとっていたが、長宗我部の畿内への出兵が秀吉に阻まれた
・紀伊国は古くは”木国”(きのくに)

-目次-
第一章 山城破壊者・信長の出発点(岐阜城)
第二章 悲運に泣いた信長の叔母(岩村城)
第三章 琵琶湖東岸の大要塞(観音寺城・安土城)
第四章 朝倉どのの夢の跡(越前一乗谷城)
第五章 激戦に散った夫婦愛(小谷城)
第六章 焼討ちされた中世のシンボル(比叡山延暦寺)
第七章 松永久秀覚悟の自爆(信貴山城)
第八章 雑賀鉄砲衆の拠点(弥勒寺山城)
第九章 光秀の母は殺されたか(丹波八上城)
第十章 三木の干殺し(播州三木城)
第十一章 畿内をのぞむ水軍の城(洲本城)
第十二章 中世の自由と山城の終焉(紀州根来寺)