春の宵。

 利吉は春の、朧な月を眺めながら、一人酒を酌んでいた。肴は、今日手折ってきた一枝の桜花だった。丁度桜が満開で、芽吹きの遅い山々も桜色の霞が掛かった様に見える程だ。時折吹く風は、微かに甘い、花の香りを含んでいる。
 その時、ほとほとと扉を叩く、小さな音がした。夜もそんなに深くない時間であるが、元々来客などない家なのだ。不思議に思いながらも返事をした。
「はい、どちら様でしょうか」
「あの、もう入っちゃってるんです…」
 小さなか細い声がして、利吉が扉の所を見ると、何かが居た。手のひらに乗ってしまいそうに小さなそれは、男の子のようだったが、頭に何か妙な帽子の様なものを被っている。強いて言えば、何か長い耳のような…。
「何の用かな」
 特に驚いた様子も見せずに利く利吉に、それは驚いて言った。
「あの、変だとか、お化けだとかって驚かないんですか?」
「驚いて欲しかったの?でも、君は怖そうには見えないし、悪戯をする積りなら声を掛けたりしないだろう?」
 利吉はくすりと笑った。
「まぁ、そうなんですけど…」
「まぁ、そんな所に居ないで、こっちへお上がり。丁度一人で退屈していたんだ。お菓子は好きかな」
 そう言って、利吉はその小さなものに笑いかけた。
「大好きですぅ」
 小さなものはそう言って少し赤くなった。笑った利吉がとても優しく素敵に見えたから。
 利吉は立ち上がり、文机の下のて文庫から小さな包みを取り出した。和三盆を固めたおちょぼという干菓子が入っているのだ。それから土間に降り、小さなものに手を差し出した。
「どうぞ」
「あっ、有り難うございます」
 すっかり恐縮してぺこりとお辞儀をして、それは指に掴まって、利吉の手のひらに乗る。睛が開いたばかりの子猫ほどの大きさしかなく、居るのか居ないのか分からない程に軽かった。
 先刻まで座っていた場所に戻って座り、向かい側にそれを下ろしてやる。菓子の包みを解いて差し出し、利吉は自分の杯に酒を注いだ。
「悪いけどお茶はないんだ。お酒は…、飲まないか」
 妖かしの眷属は餅と酒が好きだという事を思い出したのだが、目の前に居るそれはあまりにも幼くて。
「あ、お気遣いなく。お菓子だけでいいですぅ」
 利吉の言葉に慌てて首を振り、お菓子に手を伸ばす。指先ほどの半球形のそれも、小さなものの手にはかなり大きい。手を粉にして掴んだお菓子は甘い匂いがする。
「頂きまーす」
 と、律儀に挨拶をして齧り付き、大きな睛を更に円くした。
「とっても美味しーです。これ」
「そう。それは良かった」
 そう言って笑い、酒を含む。そうして、一生懸命にお菓子を齧っている小さなものを見た。帽子の形は妙だが、赤いふわふわした髪も、大きな鳶色の睛も可愛らしい。微かに頬に浮かんだそばかすが目立つ程に、肌の色が白い。見飽きない、と言うよりもずっと見て居たいような可愛らしさである。
「あの…」
 視線を感じて顔を上げると、利吉と睛が合った。思わず見詰め合った後、不意に二人は我に返った。赤くなって睛を逸らす。
 小さなものはやっと思い出した様に言った。
「あの、私、恩返しに来たんです」
「恩返し?」
 利吉はその言葉を繰り返し、何の事か、と言う顔をした。恩返しをされるようなことをした憶えは無いのだ。しかも、人間以外のものを助けた憶えも、無い。だが、小さなものは一生懸命に言った。
「昨日、山で子うさぎを助けてくれましたよね。憶えていませんか」
 そう言えば昨日、山に出かけた事を、思い出した。そして罠に掛かっていたうさぎを逃がした事も。食べるには小さすぎたので。あまりに些細な事なのですっかり忘れていた。
「ああ、そう言えば…」
「私、うさぎの精なんです。あの子うさぎに代わってお礼をしに来たんです。何か一つ、あなたの願い事を叶えさせて下さい」
「と言われても…」
 利吉は少し困ってしまった。逃がしはしたが、罠は自分の仕掛けたものだったのだ。しかも、大きかったらとっくに食べてしまっていた筈だし。お礼をされる謂れは無いような気がした。これは、物語にありがちな展開なのではないかと思い、聞いてみる。
「もしかしてその子うさぎは、若様か姫様だったのかい?」
「は?ごく普通の子うさぎですけど…?」
 利吉の言葉に不思議そうな顔をする。
「さ、願い事を言って下さい」
 小さなものはニコニコと利吉を促した。
 だが、とりあえず、仕事の依頼もまずまず有るし、お金にも困っていない。酒にも女にも不自由していないので、願い事と言われても、思い付かない。それに、望むものは自分で手に入れる主義だった。
 利吉の思惑には気付かず、小さなものは、利吉が願い事を考えているのだと思い、期待を込めた眼差しでじっと見詰めている。
『参ったな』
 きらきらした睛でじっと見られて落ち着かない。小さいとは言えとても可愛いのだから。気を逸らすように杯を干し、次を注ぎながら利吉は言った。
「すまないが、願い事は無いんだよ」
「ええっ!」
 利吉の言葉に、小さなものは酷く驚き、それからしくしくと泣き出してしまった。慌てた利吉はそっと手のひらに掬い上げて、指先でそっと背中を撫でた。その体はふんわりと柔らかく、温かかった。
「どうして泣くの」
「だって…」
「願い事が無いって言うのはそんなに大変な事なのかい?」
「だって、願い事を叶えてあげないと…、帰れない…決まりなんです」
 聞かれて、しゃくり上げながらそれが言った。利吉が眉を顰めた。
「帰れないって、仲間の処にかい?」
 こっくりと頷き、それは泣きながら利吉に言った。
「お願いですから、何か願いごとを言って下さい」
 縋るような言葉に、利吉は困って聞き返した。
「どんな事でも良いのかい?」
「はい…」
 泣きながら頷く様子は酷く可愛らしくて。願い事は思い付かないけれど、この小さなものを泣かせたくなくて。願い事をして欲しいと言う小さなものの、その願いを叶えてやりたくて。困り果てて利吉はこう言った。
「じゃあ、私の考えている事を当ててごらん」
「え、」
「それを願い事にするから」
「教えてくれないんですか?」
「それじゃあ、詰まらないだろう」
 可笑しそうに笑った利吉に、小さなものは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
 そう言って睛を瞑って手を合わせると、なにやら祈りだした。
 小さなものは一生懸命に利吉が何を望んでいるのだろうと、考えた。利吉の顔を思い出す。涼しげな目許、通った鼻筋、形のよい口唇と指先。何よりもさらりと流れて肩にかかった、長くて艶やかな黒髪。自分のような赤い髪や茶色の髪と違って、黒髪はとても珍重される髪の色なのだ。成体になった眷属にもちょっと見られないほど、耳が無いのが不思議なくらい、きれいな人。
 自分を見つめた優しい眼差し。黒い眸は吸い込まれてしまいそうなほどに深く、静かで。触れた手は大きくて温かくて。そうして、願い事を叶えてしまえば、自分は利吉と離れなければならないのだ。初めは、眷属の処へ帰れない事が酷く悲しい事だったのに、利吉と離れると言う事も、同じくらい、悲しい事に思えて来た。
 だめだめ、今は利吉さんの願いを当てなくちゃ、と、思っても、やっぱり頭の中を回るのは利吉の事で。月と桜の花を見て、静かにお酒を飲んでいた。手折られた桜の枝は小さく、だから、優しい人なのだと思った。そう、自分のようなうさぎの精(しかも幼体)に声を掛け、お菓子までくれた。お菓子はとても美味しく、こんな美味しいのは初めて食べた様に思う。もっと、この人の側でお話をしたり、お菓子を食べたりしていたい。
 と、突然、ぽんっと言う音がして。
 其処には、人間の子供と同じ大きさになった、小さなものが居た。小さかった時と同じ様に可愛らしかったけれど。被り物は、やっぱり帽子である。
「あれ、えっ?」
 驚いて自分の姿を触ったり引っ張ったりしてみる。それから利吉を見てみたが、やはり、自分が大きくなってしまったらしい。
「わーん、どうなってるの」
「それが私の願いなのかな?」
 利吉はくすりと笑って、泣き声を上げている小さなものを引き寄せた。小さな体は柔らかく、胸にすっぽりと納まった。その温かさを楽しみながら、確かに、こういう事を願ってしまったかも知れない、と、思った。
「いいえ、ダメですぅ。ちゃんと願い事を叶えないと、恐ろしいことが起こるって言われてるんですぅ」
 泣きそうな声で言われ、利吉は仕方なく言った。体を抱いた腕は解かずに。本当にこのままが良かったのだけれど。
「じゃあ、もう一度頼むよ」
「はいっ!」
 大きく頷いて、もう一度祈り始める。けれど、利吉の胸の、規則正しい呼吸や鼓動にドキドキして集中できないし、何時まで経っても何も起こらない。焦りは次第に募って来て、涙が出そうになる。その時、奇妙な違和感を覚え、睛を開けた。頭が妙に軽い感じがして、体のバランスが取りにくいのだ。
「?!」
 身もがいて、利吉の腕を振り解き、恐る恐る頭とお尻に触ってみる。やっぱり、無かった。帽子に包まれていた筈の長い耳も、着物の下に隠してあった短い尻尾も、なくなっていたのだ。もう、不思議な力は使えない。みみも尻尾も失くしてしまっては、精霊ですらなくなってしまったのだ。
 恐ろしい事とは、こういう事だったのだ。精霊の力を恩返しではなく、自分の願いを叶える為に使ってしまった事への、罰。
 もう、帰る場所は無いのだ。人間の体では眷属のいる処には帰れないし、利吉だって自分みたいな得体の知れないものを側に置くのは嫌だろう。帰りたくなかったのは、側に居たかったのは、利吉ではなくて自分だったのだから。
 泣き出してしまった小さな体を、利吉は何も言わずに優しく抱きしめた。泣かせたくないと思ったのに、また泣かせてしまった。ただ、この涙が先刻の涙とは違うような気がしてはいたけれど。



 一頻り泣いて、ようやく落ち着いた。あやす様に抱き締められた腕の中で、小さなものはポツリポツリと事の仔細を話した。利吉はただ、黙って聞いていた。
「あの、ごめんなさい…。利吉さんの願い事、叶えてあげられなくなっちゃいました」
「否、良いんだよ」
 もともと、願い事なんて無かったのだから。ただ、今は別だけれど。
「それより、君に頼みがあるんだけど、いいかな」
「でも、私、力が…」
「願い事、ではなく、頼み、だよ。聞いてくれるかい?」
 利吉の言葉にぱっと顔を輝かせて、頷く。力を使わない頼みなら、聞くことが出来る。願い事を叶えてあげられなかったのだから、自分に出来る事は何でもする積りだった。
「私と一緒に暮らしてくれないか?」
「えっ…?」
 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。驚いて固まっていると、利吉が少し不安そうに聞いて来る。
「もし、良かったら、だよ。嫌だったら、無理にとは言わない。君を人間にしてしまったの原因は私なんだしね」
「そんな事無いです!私、すごく嬉しい…」
 利吉と一緒に居られるのだ。これからずっと。その事は精霊で無くなった事を忘れさせる程に嬉しいことだった。我を忘れてぎゅっと利吉にしがみ付くと、利吉も抱き返してくれた。
「名前をまだ聞いていなかったね」
「乱太郎って言います」
「じゃあ、乱太郎。これから宜しくね」
「はい」
 言われて頷いた乱太郎の額に、利吉は優しい口付けを一つ、落とした。











    うさぎの恩返し                     ∩∩


TXIT : 利太郎 様 

→おまけ落描

というわけで
利太郎様がステキなTXITを送って下さいましたよv
なんて詩的で可愛らしいお話!!
リッキーが原作寄りなのにもうっとりです…
原作の漢前なリッキーがちびっちゃいふわもこ乱ちゃんに
お菓子をあげてる1シーンだけでもお茶碗3杯は軽いですね!
ああ、いまだ頭の中がふかふかしておりますv
幸せ…vvv

利太郎様。
いつもステキなお話を本当にどうもありがとうございます。m(_ _)m


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