春、おぼろ
      其の四       >>>其の五




 乱太郎と別れて大江を捉まえて仕事絡みの連絡をしてしまうと、利吉は本当に仕事の終わりを感じて息を付いた。それから、乱太郎に別れを告げたりせずに、あのまま少し待っていてもらえば良かったのだと、思い至った。今から戻れば、乱太郎はまだ茶店に居るかも知れない。そう思って行って見たものの、乱太郎はすでに帰った後だった。本当はもっと話をしたかったし、一緒に居たかった。それに、乱太郎が何を言い掛けていたのかも気に成ったのだが、生憎、今回は学園まで行く時間もなかった。大江と連絡が取れ次第、次の仕事に掛からなければ成らなかったから。後ろ髪を引かれる思いで、利吉は仕事の支度を為るべく自宅へと戻った。



 ほぅっ、と溜め息が零れてしまう。教室の窓から暈りと外を眺める。すっかり春らしくなって、日差しは明るく暖かい。もうじき桜も咲くというのに、乱太郎の心は一向に晴れなかった。
「どうしたんだよ。溜め息ついて」
 何時隣に来たのか、きり丸が乱太郎の顔を覗き込む。
「あ、きり丸。バイトは?」
「これからだけど。何かあったのか?元気ないし」
「何でもなぁい」
 きり丸の言葉に首を振って、乱太郎は息を吐く。
「何でも無くはないだろう。溜め息ばっかじゃん」
 言った側から、乱太郎は息を吐く。ほら、また、ときり丸が笑ったのに気のない笑みを返して、乱太郎はポツリと言った。
「私たち、もうダメかも…」
「私たち?」
 聞き返したきり丸に、乱太郎はこっくりと頷いた。この場合、私たちと言うのは、『友達の自分と乱太郎』ではなく、学園公認カップルの『利吉と乱太郎』の事だろう。
「上手く行ってないのか?」
 不思議そうにきり丸が聞く。
「うん。なんかね、最近ちょっと利吉さんの様子が変なんだ…」
 と言って、また溜め息を吐く。
「どの辺が?」
きり丸が首を傾げる。利吉が乱太郎以外に興味を向けるようには思えないし、自分が見た限り、相変わらずの溺愛ぶりの様な気がする。
「話し掛けても上の空だし、あんまり逢えないのは何時もだけど、仕事が忙しいって直ぐに帰っちゃうし。この間なんかは、久し振りに町で会ったのにお茶だけだったし。信じられない…」
 不機嫌そうに言って、乱太郎は溜め息を吐く。お茶だけって、他にも何か…、と言い掛けてきり丸は慌てて言葉を飲み込んだ。そんな事を聞こうなんてどうかしていた。だが、端から見ての感想はともかく、乱太郎がそう言うなら、そうなのかも知れない。けれど、やっぱり、きり丸には利吉が心変わりするとは思えかった。
「でもさ、何か理由があるのかも知れないゼ?」
「理由?どんな?」
「そりゃ分からないけど。利吉さん忍者なんだしさ、仕事の絡みかもしれないだろう。それとも、もう信じてない?」
「まさか。やっぱり大好きなんだもん。だから困ってるんじゃない」
 くすりと笑って聞いて見ると、乱太郎は怒ったように言う。乱太郎は愛されているから、少しでもそれが見えなくなると不安になるのだろう。そんな必要は少しも無いのに、と思うと、少し可笑しく、羨ましかった。
「じゃあ、信じて待つんだな。信じるより、疑う事の方が簡単だぜ?」
「うん。分かってる」
 信じているし、信じたい。利吉の仕種も眼差しも、相変わらず優しくて。だから、利吉の態度が理解出来なくて困っているのだ。
「じゃ、俺、バイト行くわ。あんまり落ち込むなよ」
「うん。ありがとう」
 軽く肩を叩かれて、乱太郎は頷き、また、溜め息を吐く。きり丸は小さく笑い、教室を出た。



 困ったな、と、利吉は息を吐いた。青い空にはゆったりと白い雲が流れている。此処は忍術学園の学舎の屋根の上、つまりは乱太郎の居る教室の、そのずっと上だった。まさか、乱太郎がそんなに悩んでいるとは思わなかった。いや、確かにその言葉を言おうとする事に夢中で、色々と上の空だった事は否めない。その為に、乱太郎にそんな思いをさせてしまって居たとしたら、本当に本末転倒だ。
 けれど、自分でも本当に不思議なのだ。そういう事を手伝った事は何度となく有ったし、本当にごく他愛ないことだと思っていた。けれど、いざ、自分の事と成ったら、少しも簡単な事ではなかったのだ。もっと勇気の要るはずの事でさえ、もっと簡単だったような気がする。ほんの一言なのだ。けれど、その一言が、どうしても言えない。何時だって、今日こそは言おうと思っているのに、いざ言おうとすると、言葉は上手く出てこないか、タイミングが合わずに失敗したり邪魔が入ったりする。桜が咲くまでには、と思っていたのに、気が急くばかりで徒に時間ばかりが経ってしまって、桜の季節はもう目の前だった。好きだと告白した時だって、初めて口付けをした時だって、もっとさり気なく、スマートにしてのけただけに、利吉の焦りはひとしおだった。
「乱太郎…」
 とても可愛い、小さな恋人。もう一つ息を吐いて、利吉は立ち上がった。
「やっぱり逢って行こう」
 そう言って、懐の奥にしまってある小さな包みを確かめた。あれから、やっと気に入るものを探し出して買った、乱太郎への贈り物。何時会えるか分からないから、何時でも渡せるようにと持ち歩いていたのが幸いした。本当は父に相談があって来たので、会わずに帰る積りだったのだから。だが、伝蔵は他行中で居ず、時間はたっぷりある。
「今日こそは言いたいんだが…」
 何時にない弱腰で呟き、利吉はとん、と瓦を蹴り屋根を下りた。



 さり気なく一階の玄関から学舎に入り、は組の教室に行く。人気のない学舎は静かで、時折、生徒の声が風の乗って聞こえてくるだけだ。静かに戸を開けると、乱太郎は相変わらず窓に寄り掛かって外を見ていた。
「何を見ているの」
 声を掛けるとびくりと肩を竦め、乱太郎が振り向いた。
「利吉さん…」
 その姿を認めて、乱太郎が柔らかな笑みを浮かべる。そして、小さく頭を振った。
「外を。もう直ぐ桜が咲くなぁって」
 そう言って、また窓に寄り掛かり、外を眺める。利吉も隣に行き、窓に寄り掛かった。風のない、暖かな日。
「そうだね。蕾も随分大きくなっていたよ」
 そっと引き寄せると大人しく身体を預けてくる。
「この間はごめん」
「ううん。お仕事じゃ仕方ないですもん」
 諦めているのでも、拗ねているのでもない言葉に、何時も救われる。
「でも、嫌だろう?」
 その言葉には答えずに、小さく頭を振る。怒っていない筈は無いのに、先刻きり丸には怒っていると言っていたのに。
「利吉さんの顔見たら、忘れちゃいました」
 そう言って甘える。本当にそうなのか、忘れた振りをしているのか定かではないけれど、乱太郎のその言葉に、利吉は何時も甘えてしまうのだ。
「本当にごめん」
 そう言って抱き締めると、乱太郎の小さな手が利吉の頬を包み込み、そっと口唇を触れ合わせた。珍しく積極的な行動に、利吉はどきりとする。
「だったら、今日はお茶だけなんて言わないで?」
「乱太郎…」
「それとも、今日も忙しいんですか?」
 大胆なことを言いながらもやはり恥ずかしいのか、その目許と首筋は仄かに紅を帯び、声は僅かに上擦っている。少しでも一緒に居たいという、利吉の気持ちを確かめたいという乱太郎がいじらしくて堪らない。その身体をきつく抱き締めて、利吉は囁いた。
「今日は乱太郎に逢いに来たんだ。だから、大丈夫」
「嬉しいな」
「私もだよ」
 頭巾を解いて柔らかな髪に口付ける。ふわふわと柔らかな髪の感触は心地良く、微かに汗の匂いがする。それは利吉の欲情に火を付ける。この間町で会った時だって、その前の時だって、乱太郎を誘おうとした矢先に、別れる羽目になったのだ。学園に居る今、そういう心配は無いのだという事も、欲望に歯止めを効かなくさせる一因だった。
「此処で良いの?」
 毎日来る場所で有る事に気を遣って聞くと、乱太郎は小さく首を振った。
「あの、出来れば他の場所で…」
「うん」
 恥ずかしげな乱太郎の言葉に頷いて、利吉は小さな身体を抱き上げると教室を出た。

>>>其の五
                                TEXT:利太郎様   
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