春、おぼろ
    其の参      >>>其の四




  利吉が立っているのは小間物を扱っている店の前だった。髪を結ぶ紐や布、櫛、笄、紅、白粉、などの細かいものがきれいに並べられている。利吉は、櫛を手に取ってじっと見ていた。結婚の申し込みをする時には、贈り物を添えるのが良いという助言を貰ったのだ。そして、その贈り物は櫛や笄、鏡など、身を飾れるものが良いと聞いたから、取りあえず見に来たのだが。
「利吉さん、今日わ」
 声を掛けると、利吉が少し驚いた顔で乱太郎を見た。逢いたいと思っていた乱太郎が、隣に居るという事に驚いたのだ。それから、何時もの笑顔になる。
「やぁ。珍しいね、こんな所で会うなんて」
「利吉さんこそ」
 そう言った乱太郎の言葉に苦笑した。確かに、町で買い物をしているのは珍しいかも知れない。それに…。
「お仕事、良いんですか?」
「一昨日終わって、家に帰ってたんだよ。これから逢いに行こうと思ってた」
「嬉しいです」
 利吉の言葉ににっこりと笑う乱太郎に、ほんの少し、心が痛んだ。仕事が終わって直ぐに逢いに行かなかった事を、乱太郎は決して拗ねたりしない。
「お茶、飲みに行こうか」
「買い物は良いんですか?」
 利吉の言葉に乱太郎が聞き返す。
「私、待ってますから、どうぞ」
 利吉が手にしている、華やかな飾り彫の有る艶やかに磨かれた飴色の櫛はきれいで、髪を梳くだけではなく、挿して飾るものだという事は直ぐに分かった。乱太郎の胸が急に苦しくなる。利吉はあんなきれいな櫛を誰に送るのだろう。母親への土産にするには派手すぎるし、自分は髪に櫛を飾ったりはしないのだから。
「いや、急ぎじゃないから良いんだよ」
 そう言って、持っていた櫛を置く。華やかな飾り彫が良いような気がして手にしてみたけれど、今一つしっくりしなかったのだ。そして、乱太郎を見たらそれは確かなものになった。もっとすっきりとした彫の上品なものの方が良い。木肌の色ももっと白い方が、映りが良いだろう。
「行こうか」
 差し出した手に小さな手がそっと触れる。その柔らかな温もりを包み込む様にしてにぎり、利吉は歩き出した。
 その店は、通りからは少し入った場所に有ったが、なかなかに繁盛していた。
「此処…」
「ああ、美味しいって聞いていてから、来て見ようと思っていたんだよ」
「私も。いま、学園でも噂なんですよ」
 利吉の言葉に、乱太郎はにっこりと笑った。床机に腰掛けて、お茶と団子を注文する。
「元気そうで良かった」
 利吉が軽く髪を撫でて言う。優しく笑う利吉の眸が、自分に触れたいと言っている様で少し恥ずかしくて、乱太郎は眸を伏せる。
「利吉さんもご無事で何よりです」
「ありがとう。何時も心配ばかり掛けてしまうね」
「ううん。お仕事だし…」
 利吉の場合でなくても危険の無い忍び事は無いし、たとえ危険の無い仕事だとしても心配せずには居られないのだから。
「学園の方はどう?」
「皆、相変わらずです。あ、この間ですね…」
 促されて話し出す。けれど、利吉が学園のことを聞きたい訳ではない事は知っている。利吉は自分の事を聞きたいのだ。学園で何をして、どんな事を考えていたのかが知りたいのだ。だから、聞かれるままに、身の回りで起きた事を取り留めなく話す。利吉は自分の話を楽しそうに聞いているし、自分はそんな時の利吉の笑顔が大好きだから。
 にこにこと話す乱太郎を見ているのは楽しい。まだ高くて甘い声は耳に心地良い。鳶色の眸をきらきらさせて、くるくると変わる表情で一生懸命に話す様子が愛しい。この笑顔を誰にも見せたくなくて、この声を他の誰にも聞かせたくなくて、狂おしく沸き上がって来る独占欲を必死で押さえ込んでいるのだ。もし、このまま乱太郎を攫って、自分以外の誰も知らない場所に閉じ込めてしまうことが出来たら…。
「それでね、…利吉さん?」
 ふと見上げた利吉の睛が酷く真摯で、乱太郎は小首を傾げた。話に何かおかしい所が有ったのだろうか。例えば、知らない間に重大な事件に巻き込まれていたとか、利吉の仕事絡みの事に関わっていたとか。
「え、ああ。ごめんよ。うん、それで?」
 訝しげな乱太郎の言葉に、利吉は慌てて表情を緩めた。閉じ込めたりしなくたって、乱太郎は自分を好いていてくれるのだから。団子の皿が空なのを見てお代わりを頼み、続きを促す。
 なんとなく、心此処に在らずの利吉に不安になる。上の空で自分の話を聞くなんて、何か心配事でも有るのだろうか。それとも…。気を取り直して、乱太郎は再、話し始めた。
「そうしたら、今度は…」
 話し始めると、利吉はまたじっと自分を見詰めていてる。何時もの優しい笑顔ではなく、何かを考えて居るような、真剣な顔で。不意に、先刻の櫛が思い出された。自分が持つものではない、きれいな、女物の櫛。乱太郎の胸が急に苦しくなった。
 お団子を食べながら一生懸命に話している様子が可愛くて、やはりずっと手元において置きたくなってしまう。そうして、思わず心に留めていた言葉を言ってしまいそうになる。
「「あの、」」
 声が重なって、二人は一瞬顔を見合わせる。利吉の真摯な顔と、乱太郎の不安そうな顔。咽喉まで出掛かっていた言葉は出口を失い、沈黙が落ちた。
「「あの」」
 思い切って切り出した言葉も、再、重なった。
「あ、何かな」
「利吉さんが先で良いです」
「大した事じゃないんだ」
「…私も」
 一度言葉に仕損ねると、それを言うのは酷く勇気の要る事になってしまって。どうしよう、と、二人が視線を宙に彷徨わせた時、偶然に知り合いを見つけた。
「あ、きりちゃん」
「大江…」
 この間から探していた人物だ。このまま別れてしまうのが芳しくないことだとは分かっていたけれど、見つけた時に捉まえないと、何処に行ってしまうか分からない男なのだ。
「ごめん。せっかく逢えたのに悪いんだけど」
「良いです。早く追いかけないと見失っちゃいますよ」
 利吉の言葉ににっこりと笑う。乱太郎のその笑顔を心苦しいと思う余裕も無くて。
「本当にごめん。埋め合わせは必ずするから」
 そう言って利吉は腰を上げると、足早に去っていく。それを見送って、乱太郎は溜め息を付く。自分と逢っている時に、仕事絡みで中座するなんて初めてだった。それ位、利吉は自分と逢う時には仕事と余暇を分けているのだ。そもそも、利吉が見つけた人だって、仕事絡みかどうかは分からない。そう思った瞬間、何故かまた、あの櫛の事が思い出されて酷く悲しくなり、乱太郎は俯いた。
「おい、大丈夫か?」
 突然降って来た馴染みの声に、笑顔を作って顔を上げる。
「きりちゃん、お使い終わったの?」
「うん。そこで利吉さんに、乱太郎とお団子でも食べてけって言われてさ」
「うん。此処の、美味しいよ」
 そう言った乱太郎の隣に腰掛けて、きり丸は小銭を床机の上に置いた。利吉に預かったのだ。御代を置いてくるのを忘れたから届けてくれないか、と。お釣はお駄賃にしても良いと言われたけれど、笑っている乱太郎が何故か寂しそうに見えたから。
「おばちゃーん、お団子とお茶、持ってきて」
 二人で全部食べてしまう事にした。

>>>其の四
                              TEXT:利太郎様   
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