春、おぼろ
     其の弐       >>>其の参




  二人で梅の花を見に行った。昨日までは温かかったのに、急に寒くなってしまった。
「寒くないかい? 大丈夫?」
「大丈夫です。利吉さんと一緒だから」
 そう言って、うっすらと頬を染めた乱太郎に、利吉も赤くなる。今が盛りと枝が白くなる程に花を咲かせ、甘い香りを振りまいて咲き誇る梅花の下を、手を繋いでそぞろ歩く。
「きれいですね」
「うん。ちょうど良い時に来たね」
 時折、はらりと散る花片に、乱太郎は手を伸ばす。手が届く訳では無いけれど、花片を掴まえれば何か良い事が有る様な気がしたのだ。ふと、赤い髪に止まった花片をそっと摘んで。
「未だ香りが残っているよ」
 と、乱太郎の手のひらにそっと乗せる。乱太郎はくん、と嗅いで微笑った。
「本当だ。とても良い匂い」
 そう言って笑った乱太郎が可愛くてならない。こうして手を繋いで歩いても、兄弟か何かにしか見えないのは都合が良いけれど、一寸寂しい気がする。暫くの間、二人は手を繋いだまま、然して広くない梅花の林を彷徨うように歩き回った。話す言葉も途切れ途切れの、静かな時間。
「甘酒、飲みに行こうか」
 抱いた肩が冷たい事に気が付いて利吉が言うと、乱太郎は笑って頷いた。
 林を出て村に近い所にある茶店に腰を落ち着けた。甘酒を運んできたお婆さんに『仲のよい兄弟だねぇ』と言われて、顔を見合わせて苦笑する。その時、遠くから鈴の音と謡いの声が聞こえて来た。立ち上がって音のする方を見た乱太郎が、小さな声を上げた。
「あ、利吉さん、花嫁行列ですよ」
「へぇ…。珍しいね」
 花嫁行列に行き会うなんて、本当に珍しい。床机に掛けて待っていると、華やかな行列が来た。一張羅を着た祝い謡を歌う男、馬子、花嫁の乗った馬、嫁入り道具らしい長持ちや行李を運ぶ男達が、賑々しく通り過ぎてゆく。真白の被衣を着た花嫁は俯いていて、その顔は良く見えなかったけれど、穏やかな空気が幸せなのだと教えていた。
「きれいですねぇ。お嫁さん」
 にこにこと目の前を行く行列を見て、乱太郎が言う。
「そうだね」
 その言葉に頷いて。ふと、真白の被衣を被った乱太郎が、心に浮かんだ。白い練絹の色は乱太郎の赤い髪によく映えるだろう。
「良かったですね」
「どうして?」
「だって違う村に住んでたら毎日会えないでしょう?でも、好きだったら毎日会いたいだろうし。結婚したらずっと一緒なんですよね。だから」
「ああ、そうだね」
 一寸羨ましそうな口調が、利吉の胸を締め付ける。逢えない日々が長くても、次に逢う日の約束が出来なくても、決して怒ったり咎めたりしない乱太郎だからこそ、その言葉は胸に痛い。愛しくて堪らない小さな恋人を、利吉はきつく抱き締めた。
「ごめん」
「利吉さん?」
「何時も寂しい思いばかりさせてしまうね」
「謝らないで下さい」
 小さな手が髪に触れ、そっと撫でた。
「私、凄く幸せなんですよ。知ってます?」
「乱太郎…」
「利吉さんが、ただいまって帰って来るのは私の所だから。他の何処でもない、私の所だから。私、それだけで凄く幸せなんです。だから謝らないで下さい」
 どれ程の思いを押し殺してその言葉を言うのだろうか。見詰めた乱太郎は、何時もの柔らかな笑顔を浮かべていて。ああ、と利吉は思う。父の居ない長い日々を、母もこんな風に笑っていた。寂しくないかと聞いてもただ、優しく笑うだけだった。きっと母も、乱太郎と同じように、父を信頼していたのだろう。自分は、乱太郎の信頼に足りているのだろうか。
「本当に、それで良いのかい?」
「充分ですよ」
 にっこりと笑われて。利吉の脳裏に見た事も無い景色が浮かんだ。山裾にある竹垣を廻らせた小さな家。その、開け放った縁側には乱太郎が座っていて、手を振っている。自分は其処に帰るのだと、何故か安堵する。
「利吉さん…?」
「え、ああ、ごめんよ」
 訝しげな乱太郎の声に、利吉は意識を戻し、抱き締めていた腕を解いた。気が付くと花嫁行列は遠くなっていて。
「行こうか」
「はい」
 そう言った利吉に、乱太郎はこっくりと頷いた。



「それで、結婚しようと思った訳か」
「はぁ」
 伝蔵は溜め息を吐いて、僅かに顔を赤らめている利吉を見た。さすがに父に惚気話をしたことが恥かしいらしい。
「それで、乱太郎は諾と言ったのか」
「は?」
「結婚すんだろ。乱太郎は良いと言ったのかと聞いとるのだ」
「いえ、まず父上に相談してからと思いまして…」
 照れて頭を掻いている息子にもう一つ拳骨を落とす。
「お前の決めた事をワシが反対したって仕方がないだろっ」
 どうせ利吉の事である。こうと決めたら例えどんな事をしてでも遣り遂げてしまうのだ。反対するだけ労力の無駄だと嫌と言う程知っているから、伝蔵は一言だけ、付け加えた。
「母さんにも一言言っとけ」
「父上、ありがとうございます」
 痛む頭をさすりながら、利吉は姿勢を正して頭を下げた。
「あーあ、やだやだ…」
 そう呟いた伝蔵の胃が、きりきりと痛んだとか痛まなかったとか。それはまた、別の話。



 それから、利吉の苦闘が始まった。小口の仕事が立て込んで来て、なかなか乱太郎に逢う時間が取れなくなってしまった事も有ったが、どうも、その一言が言えないのだ。ほんの一言なのに、乱太郎の笑顔を見ると何故か言葉に詰まってしまう。言い掛けた言葉を飲み込む度に、乱太郎は一瞬悲しそうな顔をするのだが、自分の事に夢中な利吉は、不用意にもその事を見落としたのだ。少しづつ、乱太郎の笑顔が寂しくなって行く事に気付かないまま、日々が過ぎて行った。



 大分暖かくなったある日。
 ふと、目を向けた街角に、決して見間違えたりしない人を見つけた。
「あっ」
「うん?どうした、乱太郎」
 急に立ち止った乱太郎に、きり丸が声を掛けた。乱太郎は小首を傾げた。
「利吉さん…」
「あ、ほんとだ」
 乱太郎の指した場所を見ると、確かに利吉である。珍しいこともあるもんだ、と思いながら、きり丸は乱太郎の肩をつついた。
「行って来いよ」
「でも、お使いが…」
 今は学園長の使いの途中なのだ。乱太郎の言葉に、きり丸は小さく笑った。
「手紙届けるだけだし、それもすぐ其処だから大丈夫だよ。ほら、早くしないと見失っちゃうぜ?」
「でも…」
「良いから行って来いよ!」
 強く背中を押されて、乱太郎は少し困ったように笑ってから駆け出した。
「ありがと」
 そう言った声も遠くなり掛けていて、きり丸はまた、笑った。乱太郎は滅多に言わないのだけれど。
「逢いたくない訳、ないよなぁ」
 利吉がこの間訪ねてきたのはもう一月以上、前の事だった。きり丸が知らない間に逢いに来ているかも知れないけれど、好きな人とは出来るだけ一緒に居たいに違いないのだから。
「さて、早くお使い済ませてお駄賃お駄賃っと」
 きり丸は懐の手紙を確かめて、再び歩き出した。

>>>其の参
                               TEXT:利太郎様   
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