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其の壱 | |
屋根の上で、一人、月を眺めていた。 「さて。どうしたものか」 そう一人言ちて、溜め息を付く。きれいな臥し待ちの月も、目に映ってはいても、見ては居ない。それ所ではないのだ。やっと見つけた仕事の合間に思うのは乱太郎の事ばかり、と言うのは何時もなのだけれど、今回は少しばかり違うのだ。 どうしたものかと心当りに聞いて見ても、皆一様に、分かりきった答えしかくれない。しかもその答えは、今まで自分でもそう言って来た言葉だったのだ。本当に、役に立たない。否、立つはずが無いのだ。何しろ真剣なのは本人だけで、それ以外の人間にとっては面白いだけの事なのだから。 うわの空で湯飲みの酒を一口含み、溜め息を付く。 「お金はあるんだ。うん」 自分の仕事の報酬はかなり良いほうだと、思う。贅沢三昧、とは言わないけれど、少しは余裕のある生活が出来るだけの収入だろうし、蓄えだって少しはある。けれど、問題はお金ではない。 「好きなだけじゃ、ダメなんだよなぁ」 そう、自分が好きなだけではダメなのだ。もう一つ、溜め息を付いて酒を含む。それ以上の事には自信が無いのだ。どうして父はその決心が付いたのだろう。今の自分では確かに父には及ばない。けれど、昔の、自分と同じ年頃だった父なら、どうだろうか。その頃の父になら、自分は追いついているだろうか。 「明日、行ってみようかな」 久し振りに、父の所へ。そして、その事を聞いてみよう。そう、決めてしまうとすっかり気が楽になって、利吉は残り少なくなった酒を一気に干した。父の居る忍術学園には乱太郎も居る。乱太郎の穏やかな笑顔を思い浮かべて、利吉の表情も自然と優しいものになった。 先刻から、利吉は黙ったままだった。 『堪らんなぁ、この沈黙』 伝蔵はこっそりと溜め息を付いた。半時ほど前に久し振りに顔を出して、帰還の挨拶をしたのだが、それきり黙ったままなのだ。時折、何か言いたそうな素振りを見せるので話が有るのだろうと言う事は分かるのだが。 「利吉、言いたいことが有るならはっきり言いなさい。黙っていたんじゃ分からんだろう」 何時もははっきりと物を言う息子にそう言うと、利吉は一瞬酷く困ったような顔をする。困った時でも、ちっとも困った顔をしない息子の、そんな顔に伝蔵の方が不安になった。何か、良くない話なのではないだろうか、と。 「あー、話し難いなら後でも構わんぞ」 「いいえっ!後ではダメです!」 小さく咳払いまでして尤もらしく言った言葉は、物凄い語気で押し返されてしまった。驚いて身体を引いた伝蔵に、利吉は微かに赤くなった。自分でもそんなに大声を出す積りは無かったのだろうと伝蔵は察して、姿勢を正す。 「じゃあ、早く言いなさい」 夕餉の時間が過ぎていて、腹も空いて来ているのだ。あまり遅くなると、食事は要らない物として片付けられてしまうのだ。 「父上」 「なんだ」 しばしの沈黙の後、やっと利吉が口を開いた。 「付かぬ事をお伺いしますが」 「何だ」 やれやれと思ったのも束の間で。 「どうして母上と結婚したのですか」 あんまりに付かぬ事過ぎて、伝蔵は思い切り、こけた。一体何なんだろう。家で何か有ったと言うのだろうか。 「母さんが何か言ったのか?」 急に引け腰になっておずおずと聞いてくる伝蔵に、今度は利吉が咳払いをした。 「何も仰っていませんよ」 「脅かすんじゃないよ、全く…」 利吉の言葉に安堵の溜め息を付いて。 「何だって急にそんな事を…」 「いえ、戦忍びだった父上が結婚を決意するのには、相当の覚悟が要ったのではないかと思いまして」 妙に神妙な顔つきに、伝蔵は呆れた顔をしながら、心の中で苦笑した。どうやら息子もそういう年頃に成ったらしい。フリーの忍者としては何とか一人前だが、まだまだ子供だと思っていたので、存外新鮮な感じだった。 「そんなもん、好きだからに決まってるではないか」 あっさりとそう言った伝蔵に、利吉は呆気に取られた顔をする。 「好きで、一緒に居たいと思ったから、結婚した。確かに遅い結婚だったが、それはそういう気に成らなかったと言うだけで、結婚が怖かった訳ではない」 「でも…」 「好きだったら、仕事がどうの覚悟がどうのなんて、言ってられんよ。全部ひっくるめて、背負って行くのが怖いなら、そんなものは本気じゃあないんだから止めてしまえ」 そう言って笑う伝蔵は、今までに見た事の無いような余裕の笑みを浮かべていて、利吉は少し驚いてしまった。父親では無く、一人の男としての伝蔵を初めて見たのだ。きっと母は父のそんな所を知っていたのだろう。やはり、自分は父には敵わない。 ぼぅっとしている利吉に、今度は伝増が聞く番だった。 「だが、いきなりそんな事を聞きたがるとは、何か有るのか?」 「はぁ。その、結婚したいなと思いまして…」 「ほぅ。お前が結婚をねぇ」 照れて俯く息子にふんと頷いて、伝蔵は言葉の意味に気付いた。 「何ぃぃぃぃっ!結婚―――っ!」 「ちっ、父上、お静かにッ!!」 大声を上げた伝蔵の口を利吉が慌て塞いだ。此処は忍術学園の職員寮なのだ。誰が何処で話を聞いているとも限らない。いや、聞かれているのは仕方が無いとしても、大声で言われるのは困る。 「結婚て、お前が?」 「はぁ」 押さえ込まれた体勢のまま、伝蔵は渋い顔をする。 「いけませんか?確かに私は未熟ですし、若いですが…」 「いや、お前にそう言う人が出来たのは良い事だとは思うが、後始末だけはちゃんとしなさいよ?」 「後始末…?」 「そうだ。結婚してからごたごたするのが一番良くないんだから、ちゃんと後腐れないように別れておきなさい」 しみじみと頷いて、それから伝蔵はぶつぶつと言い始めた。 「だーから嫌だったんだよ。生徒に手を出されるなんてなぁ。あああっ、ワシは何て言って顔を合わせたら良いんだっ」 「あの、父上?」 「お前もそれ相応の覚悟があっての事なんだろう。父は止めないが手も貸さんぞ!」 「確かに覚悟は要りますが、別れるって何の事です?」 訝しそうに眉を寄せる利吉に、伝蔵はイライラと言った。 「ああもうっ、乱太郎だよっ。お前はそんな事も分からんのか!」 「別れなくちゃいけないんですか?」 心底嫌そうな顔をする利吉に、伝蔵は小さく怒鳴り付けた。 「お前は結婚してからも乱太郎と付き合う積りなのかっ!お前の結婚はそんないい加減かな物なのかっ!」 「失礼なっ!私はこれ以上無いほど真剣です!幾ら父上でもお言葉が過ぎます」 「真剣ならなお悪いわっ!そんなだらしない奴はワシの息子ではないっ!」 「きちんとしたいから結婚したいと言っているんですっ!父上の分からず屋っ!」 「きちんとだと!きちんとしたいって、…そう言やお前、誰と結婚したいんだ?」 どうも先刻から話が噛み合わない。ぼそりと聞いた伝蔵に、利吉は苛立ちのあまりに涙目になって言った。 「乱太郎に決まってるじゃないですか。一体他に誰が居るって言うんですかっ」 地を這うように低い声に、伝蔵は、そういえばそうだ、と思い至った。この息子は、普段、人や物への執着や興味の薄いのだが、一つの事に集中すると呆れる程に入れ込んでしまうのだ。最初が忍び事で、次が乱太郎だった。補習授業に巻き込まれている内に情が移ったのか、一目惚れだったのか定かではないが、とにかく利吉は乱太郎に執着した。そうして、何をどうしたのか、まだ母親が恋しい盛りの子供を口説き落として恋人にしてしまったのだ。ままごとの恋ではなく、ちゃんとした、大人の恋の相手として。それが良いとか悪いとかは伝蔵の言う事ではない。選んだのは乱太郎なのだから。ただ、乱太郎の両親に済まないとは思うのだ。乱太郎の子供の時間を奪ってしまった事を。利吉と居るときに過ごすのは大人の時間、利吉が居ないときに過ごすのは子供の時間、その差異のもたらす不安定さはどうしても乱太郎に影響しない筈は無いのだから。 伝蔵は利吉の頭に拳を落とした。ごつん、と鈍い音がする。 「痛いじゃないですか」 「この戯けめがっ。結婚は女子とするものだ」 全く紛らわしい、と、頭をさすっている利吉を睨み付けた。衆道は奇異な事ではないが、一緒に住んだからといって、特になんと言うことも無いのだ。 「でも、皆に祝福されたいと思うのは可笑しい事ですか」 真摯な眸で問われて、伝蔵は黙り込む。可笑しい事ではない。好きだから一緒に居たいのだ。愛しい相手を自慢したくない者は居ないし、もちろん、反対されるよりも祝福された方が良いに決まっている。 「まぁ、可笑しくは無い」 「だから、私は祝言を挙げたいんです」 利吉の語気の強さに、其処まで思いつめて居るのかと溜め息が出た。生徒としては非常に手が掛かるが、乱太郎は確かに可愛い。それでも、何も其処まで、と思う。何しろ、二人とも若いのだから、今の儘でも充分なのではないか、と。こんなに早くに互いを縛り付ける事は無いのではないかと。離別れる事を望んでいる訳では無いのだが、二人の熱の上がり様は、直ぐにも燃え尽きてしまうのではないかと思える程に、激しく刹那的に見えるのだ。 「何だって急にそんなことを言い出したんだ」 もう一つ溜め息を付いて、伝蔵は聞いた。この間まで結婚のけの字も口にしたことが無かったのだ。 「実はですねぇ…」 そう言った自慢の一人息子の顔は、だらしなく弛んでいて、伝蔵はもう一つ、溜め息を付いた。 >>>其の弐 |
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TEXT:利太郎様 ←玉 |