読書メモ

・「日本戦史 戦国編 〜死闘!七大決戦
(河合秀郎:著、 \580、学研M文庫) : 2003.01.12

内容と感想:
 
戦国史に残る幾多の合戦のうち、その後の歴史の流れを大きく変えた戦いを7つ取り上げて、攻防の遷移やその政治的な意味を解説している。地図で各武将や軍勢の動きを示し、勢力図などもありイメージしやすい。学研の雑誌「歴史群像」の内容を再編集。

第一章 新説・姉川合戦

 戦国史では、織田・徳川連合と浅井・朝倉連合との決戦と華々しく語られる戦いであるが、両者の損害は以外にも少なかった。歴史が示すように、事実その後も浅井・朝倉は反信長勢力として活発に動いた。ただしこの合戦で、信長が琵琶湖東岸を抑えたのは確かであった。著者はそれ以上に信長が得たものは兵力分散による敵の誘引と迅速な兵力集中による敵殲滅という戦術を編み出したことであったと言う。

第二章 逆襲!山崎決戦

 光秀謀反。秀吉の中国大返し。そして天王山のある山崎での両者の決戦。これに勝利した秀吉は織田家臣団の中で発言力を一気に高める。

第三章 島津九州制覇戦

 九州制覇に向けて北上を始めた島津家。余りにも強く、限界を超えて戦い勝ち過ぎてしまったための誤算。戦争に重要な兵站システム、指揮統制システムが未整備であった。制覇目前でこの後の、秀吉の九州征伐で島津は、これに屈し、南九州に押し込められることになる。

第四章 小牧・長久手 大陣地戦

 秀吉、家康・信雄連合軍の戦いは膠着状態に陥った。しかし、長久手での戦闘では秀吉方の森長可、池田恒興ら名立たる武将を失い、秀吉に家康強しと知らしめた。結局、両者は講和し、兵力動員では明らかに不利な家康だが、秀吉からおおきな政治的譲歩を引き出すことになる。

第五章 決戦!摺上原

 東北の有力大名・伊達政宗の北関東進出のための第一歩の猪苗代湖畔での戦い。常陸の佐竹の支援を受けた蘆名勢を破り、会津周辺を手に入れる。しかし、秀吉が発していた惣無事令に違反したと佐竹に訴えられ、手にしたものを失うことになる。

第六章 秀吉襲来 - 小田原合戦

 いわゆる”小田原評定”と比喩にも用いられるようになってしまった、北条家の誤算が生んだ自らの滅亡劇。家中の外交方針が決まらないままに開戦となり、関東の覇者はついに小田原城を包囲されるまでに攻め込まれた。著者は外交段階で秀吉に臣従を表明していれば本領は安堵されただろうと言う。

第七章 攻防!大坂の陣

 豊臣家滅亡となる、冬の陣と夏の陣。まず著者は冒頭、本当に「家康は豊臣家を滅亡させたかったのか」と疑問を投げかける。秀吉死後、徳川政権を立てた家康は、それまで豊臣家が握っていた武家と公家の統括権を、関白家である豊臣家と分割して掌握しようとしていたと言う。秀頼に孫娘を嫁がせ、その秀頼との会見も実現し、両家の蜜月状態を演出した。豊臣家を刺激しないよう慎重に事を進めていた家康だったが、思うようにはいかなかった。淀殿、秀頼らは時流に従うのをよしとせず、ついに1614年の大坂での戦闘となる。

更新日: 03/05/30