読書メモ
・「史伝 伊達政宗」
(小和田哲男:著、 \590、学研M文庫) : 2003.05.05
内容と感想:
伊達を”だて”と読めるのも政宗のおかげ(?)である。”伊達男”という言葉があるが、それが政宗から来ているかどうかは定かではない。”伊達”には目立つ、という意味もあるが、”独眼竜”政宗自身はそれを地で行く人生であったらしい。ただ、歴史上に現れるのが少し遅かった。野望を抱きながらも、その前途を阻み、苦い思いをさせられたのは時の有力者、秀吉であり家康であった。しかし、柔軟な発想と、開き直りとも言える大胆さ、などを生かして戦国の世を生き延びた。
反抗心が見えながらも、秀吉も家康も政宗の人物を見込んで、彼を潰そうとはしなかった。
政宗が摺上原の戦い(1589年)で蘆名氏を滅亡に追い込んで、福島県の全域、山形・宮城の一部を領する大大名に成長したのも束の間、その戦闘そのものが、時の関白秀吉の惣無事令(私戦禁止令)に違反していた。しかも関東の北条と同盟関係にあったこともあり、秀吉の北条征伐への参陣に2ヶ月も遅刻した。命もないものと諦めた政宗であったが、許され、その代わりに蘆名氏から奪った領地は没収されてしまう。秀吉に没収されたのは政宗だけではなかった。陸奥・出羽の多くの小領主の領地が取り上げられ、蒲生氏郷ら秀吉政権の大名らが転封などで新たな領主として移された。
陸奥の葛西・大崎氏らは没収の憂き目にあった者たちであったが、彼らが新領主・木村吉清、晴久父子による支配に反発、一揆を起こす。これを裏で糸を引いていたと政宗に疑惑が持たれたが、一揆鎮圧に貢献したことで「限りなく黒に近い白」ということで不問に付された。またしても命拾いをする。
その後、朝鮮出兵にも参陣したりしているが、関白・秀次事件(謀反をデッチ上げられた)が起き、政宗も秀次の一味ではないかと詰問を受ける。しかしこれも許される。
秀吉が死ぬ直前(1598年)、氏郷がそれに先立つように死んだ(1595年)会津領に、秀吉の命令で越後から上杉景勝が転封により入ってくる。秀吉死後、三成と対立していた家康が、三成の決起を誘導するため、上洛しない景勝を討伐するとして大坂を離れる。勿論、政宗は家康軍と連携し、景勝の背後を牽制。案の定、三成が反家康軍を動かし、関ヶ原合戦となる。この戦さはたった一日で決着するが、その頃、政宗はおとなしく景勝を牽制していたわけではなかった。上杉領に攻め込んでいる。これが家康の心証を害すことになり、家康の東軍に組しながらも論功行賞ではわずか2万石の加増に留まった。
徳川政権下となった後は、目立った動きとしては支倉常長のローマ派遣(1613年)、大坂の陣(1614,
1615年)への参加、家康の死、娘婿である松平忠輝の改易(1616年)などがあり、1636年に江戸屋敷で70歳で死んでいる。忠輝の改易は幕府転覆の密謀ありとされたもので、これにも政宗が絡んでいるとも言われる。常に野望を抱き続けた政宗であったが、よほど忠輝の改易にはショックを受けたようである。あわよくば娘婿を操ってと考えを廻らせていたのかも知れない。その後は目立った動きはないようである。
更新日: 03/06/23
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