読書メモ
・「本能寺の変 ―光秀の野望と勝算」
(樋口 晴彦:著、学研新書 \740) : 2008.10.25
内容と感想:
「本能寺の変」の実相に迫る一冊。
これまでこの事変については多くの研究や研究とも呼べないような謎解きがなされてきた。
関連書籍も多数ある。面白おかしく書かれたそれらを私自身も面白がって読んで来た。
その中には陰謀を唱えるものも多く、それを題材にしたテレビ番組なども制作されるようになると、
テレビの影響力が大きいだけに誤った認識が広まってしまう。それを憂いて著者が書いたのが本書である。
最近、私も読んだ「信長は謀略で殺されたのか」という本ではそうした謀略説の荒唐無稽さを指摘している。
著者もそれを意識しており、歴史にあまり詳しくない読者に向けて、良質の文献や研究をベースに書いている。
そういう下敷きもあるのだが、時代こそ違うが機動隊の現場活動を計画立案する役職にあった著者ならではの
経験が生かされていて興味深い。単なる既存の資料を整理し直しただけ、にはなっていない。
「あとがき」にもあるように「指揮官としての思考」が取り入れられていて、ハッとさせられる記述も多かった。
私もこれまで何冊も関連書籍を読んできたが、通説とされてきた光秀の人物像を見直している。
彼についての従来のイメージは小心者とか、保守的、神経質、インテリで線が細い、などといったものであった。
序章では最初に従来の人物像を覆す光秀像を語っており、読者をつかんで離さないはずだ。きっと先を読みたくなる。
鋭い人はこの章を読んだだけで、信長のイメージが実はそのまま光秀像なのではないかと気付くことだろう。
私も信長の政策や業績は全て光秀が考えたのではないかとも思い始めている。
信長が光秀を重用し、評価も高かったのはよく知られているが、ある時期から信長自身は完全に光秀を信頼して全てを任せ、
または彼の言うがままとなり、悪く言えば操られるようになったのではないだろうか?当然、秀吉もそれに気付かないこともないだろうし、
実際、光秀には一目置いていたはずだ。恐れすら感じていたかも知れない。
(これも謀略説と同レベルの突飛な説かも知れないが)
光秀謀反の同機については第二章で著者の持論を述べている。
「天下人の座を手に入れる成算が十分にあったので決行した」と。
それを決意するだけの「条件が満たされた稀有な一日だった」とし、光秀は「天の与えた機会」を見送ったりはしなかった。
まさに「千載一遇の機会が訪れたのである」。劇的である。
それに全てを賭けることができたのは咄嗟の思い付きではないだろう。
最近よく使われる言葉・セレンディピティ(serendipity)を彼は持っていたということだ。
ただ漫然と機会を待っていても巡ってきたチャンスは捕まえることができない。
彼はきっと虎視眈々と機会を狙っていたに違いない。だからこそ決断できた。
終章にもあるが、「ハイリスクに見合うだけのハイリターンがある」と判断し、
「そのリスクを許容可能なレベルまで低減するだけの見通し」があったからこそ彼は謀反に踏み切ったのだ。
○印象的な言葉
・光秀はハイリスク・ハイリターン型の人間。大胆さ、ベンチャー精神を持つ。
朝倉家に見切りをつけて流寓の身の義昭に従ったのも、その後、信長に乗り換えたのも、事変を起こしたことも。
・坂本城に見える光秀の革新性、実行力。彼が新しい城郭の概念を創り上げた
・光秀は抵抗勢力をものともせず検地を断行。それにより財政基盤が確立し、知行高によってシステマチックに軍役を割り当て、部隊編成を統一。
・左義長や馬揃えなどの奉行も務めた光秀はイベントのプロデューサーとしても優秀だった
・万余の将兵を率いる指揮官の光秀が精神的にタフでないわけがない。要求が厳しい信長の下で働く者には強靭な神経が不可欠。
しかも織田家中の出世競争を勝ち抜いて重臣にもなった人物が柔なはずがない。
・権威に従順でもなく、他者にたやすく誘導される未熟な人物でもない。老獪
・近畿方面軍司令官となった時期、細川・筒井など与力を含めた光秀の総戦力は3万に達していた
・光秀の没年齢は67歳が最有力。当時としては非常な高齢
・フロイスが描いた光秀像:用心深く抜け目のない勇敢な司令官。裏切り、密会、残酷、独裁的、謀略、忍耐力
・光秀は信長とウマが合った
・信忠は信長から家督を譲渡されてから、軍事指揮官として大きく成長。信長自身が戦場に出向く必要もなくなった。織田家の後継者としては十分で、圧倒的な権力を持った。
彼がいる限り信長の身に何かが起きても大丈夫であった。
・武田家滅亡のあと、信長とその同盟者・家康との実力差は大きく開き、既に徳川家は属国扱いであった。東海方面軍司令官。徹底して信長に服従した。
・中国・毛利攻めで光秀が秀吉を後詰することは既定方針だった。懲罰的な意味はなかった。
・光秀が信長の命令に背いたとしたら、反逆行為として家が取り潰されたはず。
・毛利攻めの後、光秀が毛利領に国替えされる可能性はあった。政権安定のためには強力な軍団を持つ武将を遠隔地に封ずるのは当然。
・光秀は信長・信忠父子が本当に京都に揃って宿泊するか最後まで情報集を続け、確証が得られなければ予定どおり中国方面に向かう積もりだった
・光秀にとって事変後の最大の敵は北陸方面軍の柴田勝家。秀吉が備中から反転するなど想定外
・宿老に謀反の計画を明らかにしたのは決行直前。それほど機密保持に留意したからこそ信長を討ち取れた
・事変当時、光秀の嫡男・十五郎はわずか13歳。引退して天下を移譲するには若すぎた
・当時の毛利家の総兵力は3万人程度。秀吉勢と同レベルに過ぎず、織田家との実力差がつきすぎて挽回の見込みはなかった。信長は毛利を潰すつもりだった。
・川角太閤記などに描かれた光秀が毛利に対して派遣した使者が秀吉に捕らえられたというのは誤り。使者は秀吉に派遣され、自分に付くよう説得するのが目的。
秀吉が誘いに応じると計算できるだけの状況も揃っていた。光秀は秀吉が毛利と睨み合いを続けてくれることを期待した。
・秀吉と光秀の間柄は決して悪いものではなかった。共に織田家の主流派からは外れ、助け合わざるを得なかった
・秀吉としては中国大返しが遅れ、光秀が畿内を完全に制圧すれば、自分の天下への望みは断たれるが、そのときは光秀政権下の武将として生き残る選択肢もあった
・中国大返しが成功したのは毛利攻めで信長本隊が出張ってくるために各宿場に手配されていた食糧や休憩施設、輸送業者などが使えたから
・両軍が総力を挙げて正面から激突する「会戦型」の合戦は極めて珍しい。多くは攻城戦だった。
・生きるということは大なり小なりリスクを背負い込むこと。
・勝者にも間違いや反省点があり、敗者にも評価すべき点がある。それが歴史から学ぼうとする姿勢
-目次-
序章 光秀の人物像
第1章 武田攻め
第2章 謀反の動機
第3章 本能寺の変
第4章 近江の情勢
第5章 大坂方面の情勢
第6章 旧武田領の情勢
第7章 中部・北陸の情勢
第8章 細川藤孝と筒井順慶
第9章 中国大返し
第10章 山崎の合戦
終章 本能寺の変の総括
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