読書メモ
・「逆説の日本史 12 近世暁光編」
(井沢 元彦:著、小学館 \1,600) : 2008.08.18
内容と感想:
シリーズ「逆説の日本史」の第12巻。
本巻でカバーする時代は以下の目次にあるようなトピックが登場する時代。17世紀前半の頃である。
今回は一冊すべてが家康がテーマとなっている。
秀吉の死後、家康がどのようにして徳川幕府を成立させていったかを描く。
著者が家康を保守主義者と呼んでいるように、家康は日本の統治を鎌倉幕府時代に戻し、強化した。家康には改革者というイメージはない。
関ヶ原にしても大坂の陣にしても家康は決して圧倒的有利ではなかったが、
長年の経験を活かし、したたかにライバルたちを潰していったことが分かる。
大坂夏の陣の頃には家康に対抗できるようなライバルはいなくなっていた。皆、力量不足で、家康に従うしかなかった。
時には謀略を使いながら、リーダーシップを発揮し日本を再統一した。
長い戦乱の時代が続き、それに終止符が打たれたことは結果的には当時の人々が求めていたのが家康のようなリーダーだったということになる。
家康の凄さは高齢にあっても意志・野望が衰えることがなかったこと。
自分の目標の達成のためには手段は選ばないが、決して無茶はしない。
じっくりと構えて時を待つ。しかしここぞというタイミングは逃さない。決断力と実行力に優れていた。
時流をしっかり読み、時流を掴んで、事を成している。しっかりした参謀役にも恵まれていたのだろう。
文字通りの戦国レースは「チーム家康」が勝ち抜いた。
○印象的な言葉
・戦乱の世。それに応じた英雄が出現。最も求められている能力を持つ人間が頭角を現す
・鳥居元忠:家康に子供の頃から仕えた。幼友達
・関ヶ原:壬申の乱(672年)があった場所もここ。十数万の大軍がぶつかり合うのも可能な場所
・自分の欠点を知ることは難しい。それをアドバイスしてくれる人を発見するのも難しい。そのアドバイスを用いるのは更に難しい(新井白石)
・福島正則:人情の篤さが徳川政権に警戒された。大坂の陣では参戦を許されなかった。幕府は汚い手で福島家を潰した
・関ヶ原合戦:秀忠隊が徳川譜代の家臣を中心とした本隊であり、家康隊は旗本と味方大名の混成軍(別働隊)だった(笠谷和比古)
・バルカン半島:古くから少数民族が多数せめぎあっている
・人の心の危うさ。時が過ぎれば何が起こるかわからない
・信義は力の裏付けがないと守られない
・関ヶ原のとき、島津家は中央情勢にまったく疎く、軍勢を呼び寄せることもせず、少人数で西軍に味方した
・家康は日本を東(武士の国)と西(天皇の国)に分割する鎌倉幕府の統治手法を踏襲。西のアマテラスに対抗して、自ら東のアズマテラス(東照大権現)となった
・東京・築地:神田山などを削り取った土を使って埋め立てた土地
・東叡山寛永寺:江戸の鬼門(東北)の方角、上野山に建立。比叡山延暦寺と同じ機能を持たせた
・大坂の陣:大大名は一人も豊臣家に味方しなかった。上杉家も佐竹、毛利も徳川に従った
・足利氏には新田、今川、武田といった同族(源氏)のライバルがいた
・相続は男系に限るというのが儒教の原則。婿養子は中国や朝鮮ではありえない
・家康から三代・家光にかけての50年間に217家が改易
・慶安の変(由井正雪の乱)の後、幕府は末期養子を認めた。無嗣による絶家、御家断絶はなくなった
・徳川将軍の正妻は宮家(天皇家の分家)か五摂家の女。しかし正妻が次の将軍を産んだケースが皆無。産ませてはならないという空気。生まれたときは処分された
・尾張と紀伊は大納言になれる家で同格。水戸は中納言。水戸家は参勤交代の義務を免除される代わりに、江戸常駐が義務付けられた。
水戸家は将軍と天皇が争った場合に天皇に味方して、血統を後世に残すための分家、保険。
・副将軍という役職は幕府の正式な機構にはない
・水戸学は倒幕の有力な論拠となった
・徳川幕府が朱子学の普及に努めたのは明智光秀の出現を防ぐため
・東本願寺の祖・教如(家康から土地を与えられた)、西本願寺の祖・准如(教如の弟)
・本多正信:三河一向一揆で指導者となり家康と戦った男。家康の勝利後、三河を逃げ出したが帰参を許され、家康の第一の謀臣として重用される
・部落差別:日本では東(北)に行くほど差別は弱く、西(南)に行くほど強くなる。
・穢多(えた):皮革技術者。牛馬の皮剥ぎにかかわってきたゆに「毛離れ」(けがれ)とされ、蔑視・賤視を受けた。毛は農作物の意味がある。ケガレ(穢れ)は「毛枯れ」
-目次-
第1章 序章としての関ケ原編 ―「天下分け目の戦い」でいかにして勝利したか
第2章 太平への長い道編 ―保守主義者が生んだオーソドックスな手法
第3章 天下泰平の構築編 ―賢者のライバルつぶしの秘策「分断支配」
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