読書メモ
・「信長・秀吉・家康」
(秋山 駿、岳 真也:著, 学研M文庫 \540) : 2007.02.18
内容と感想:
本書はタイトルにあるように「信長・秀吉・家康」をテーマに、「信長」で野間文芸賞を受賞した秋山氏へ、後輩の歴史小説家・岳氏が聞くという対談形式になっている。
いろいろ面白い話が出てくるが、特に第三章冒頭で「たとえ光秀が討たなくとも、やがて誰かに殺される。あんなふうにやってたんじゃ、異様な国になる。
家臣ばかりか、万人が感じていたのでは」と秋山氏が言っているのは共感できる。信長以外の多くがそう感じていた。
しかし本人はそれに気付かない。既に信長は裸の王様だったわけだ。革新的過ぎて国民には理解しがたかった、ついていけなくなった、ということか。
詳しくは分からないが戦乱の世が続いて、合戦で死傷するものは絶えず、当時国としては疲弊の頂点にあったのではないか?
もしそんなときにポルトガルなど外国勢が攻めてきたら日本も植民地化されたかも知れなかった、と考えるのは考えすぎか?
日本各地の大名本人は別として国民はもう戦乱の世にうんざりしていたはずだ。とっとと終わらせてくれと。
だから終わらせてくれれば誰でもいい、秀吉でも家康でも、という感じで力のありそうな方を後押ししたのだ。
不思議なのはあちこちで戦争して、その経費はいったいどこから捻り出してきたのだろうか。
他家を滅ぼして領地を拡大するのはいいが、新たな領地で内政をしっかりしなければ軍隊も動員できない。
家臣や領民にかなりの重い負担を強いたのが本能寺の変の真相なのではないかと思えてきた。
また、第4章では3人の武将を次のように表現していて興味深い:
信長は詩人、秀吉は小説家(ストーリーテラー)、家康は評論家(散文的)
○印象的な言葉
・戦争が人を覚醒させる。戦国時代は個々人が、よし、やってやろうという気分になった。自分の能力を発揮するチャンスだった
・瀬戸内海はヨーロッパでいえば地中海
・物品の流れ、情報の流れは表裏一体
・信長は毎日を戦争の中にいた。合戦のない穏やかな日常を拒否し、そんなふうに49歳まで生きた。捨て身だった。
・うつけゆえに捨て身、捨て身ゆえに天才。天才そのものが偶然であり、必然でもある。偶然と必然が結びついたところに天才が生まれる
・すぐれた将軍は兵隊を休ませない。連戦連勝してもゆっくりさせない
・信長は物事を理解するのが早かった。先入観ももたなかった
・信長のやっていることはいいことだと思いながらも、このままではいかんと思う人がいた。それを信長は見抜けなかった
・信長についていけなくなる者が出てきても不思議はない
・光秀には自信があった。秀吉や家康には天下の政治は分からないだろうと
・光秀は信長の乱暴性を取り除いた信長的なものを残せば、日本中に喜ばれると思った
・家康の家臣団は強くなかった。弱いから家臣団ができる。三河の家臣団の強さは団結の強さのこと
・小牧・長久手の戦いで秀吉は本気ではなかった。他に征服する場所がたくさんあった
・信長は皇室は存続させたほうがいいと考えていた。皇室をつぶせば歴史のいいものが切れる
・秀吉はあくまでも信長の虎の威を借る狐だった
・家康は信長の部下ではない。交流の関係、外交に通じるもの。同盟の関係。そういう関係をほかでもつくり、それでもって何かを実現しようとした
・信長は共和国的なもの、合衆国的なものを考えていた
・関が原で三成が麾下の軍を自ら率いて突進していたら状況は変わったかもしれない。小早川の裏切りもなかったかもしれない
・西軍には歴戦の武将がいなかった。みな朝鮮出兵のときにばたばたと死んでいった
・信長の時代に変わろうとしたのを、秀吉・家康が押し留めた。日本人に合う制度を作り上げた
・戦国時代は血気に逸る若者が戦争の一点へと、あらゆるエネルギーを集中していた時代
-目次-
第1章 信長
第2章 天下布武
第3章 本能寺の変
第4章 秀吉
第5章 家康
第6章 戦国巷談
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