読書メモ
・「集中講義 織田信長」
(小和田 哲男:著、新潮文庫 \438) : 2007.10.06
内容と感想:
信長を様々な角度から分析しようと思い立った著者は17つの「分析視角」をリストアップし、17の講義からなる本書を書いた。
既に知られている史料も見方を変えることで新たな歴史が見えてくるとし、そこから新たな信長像を描こうと挑んでいる。
以前からずっと感じていたことだが、「大うつけ」と評された少年時代に、砕けた格好で町を瓜にかぶりつきながら歩いていたイメージと、
成長して天下統一を進めているときのイメージとのギャップの大きさである。
人間は年とともに変わる、環境や経験によって変わるのだと言われればそれまでなのだが、
自らの使命を悟り、努力し目標実現に向けて自ら己を変えていったと考えるべきか?
また最近興味があるのが信長の精神分析。第十二講でも彼の性格を読み取ろうと試みている。
宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で描いている信長のイメージは、日本語訳では
「勇猛強忍」、「英邁果断」、「明晰透徹」、「俊敏奔放」、「剛毅果断」。
ちょっとでも逆らう者を極度に嫌ったとも言われる。
激情と合理主義が共存していた、という人もいれば、現代の精神科医などに言わせると、
粘着性、自己顕示性、情緒不安定、精神病型情性欠如、類癲癇病質、分裂病質などなどマイナスなイメージの分析もあるようだ。
そして潔癖症、綺麗好き、几帳面、完全主義者でもあった。
「神になろうとした」とよく言われるが、その原因や意図として、
譲位強要に失敗して、天皇に敗北した屈辱から精神に異常をきたした、とか、
強い自信から自我肥大にいたり、自己神格化を生み出した、あるいは、
敵対する武将たちを次々に打ち倒し、強敵・信玄や謙信が病死したことで「運の強さ」を感じたことや、
最前線にいることも多く、何度も危険な目に遭いながら無事だったことなどの影響も挙げられている。
そういったものが積み重なって、絡み合って、複雑な心境になっていったのであろうか?
また、天正九年ころから信長が変わってきた、傲慢・尊大が輪をかけて酷くなったとも書かれている。
それが本能寺の変の真の原因となった、と。
最後の講義で著者は「信長非道阻止説」というものを掲げた。
信長のこれ以上の増長を食い止めよう、と光秀が決心したというのだ。
不用心にも本能寺にわずかな手勢で宿泊していたのも増長が極まったとも言える。
当時、「神」になったつもりの信長本人は自分が死ぬなんてことは考えられなくなっていたのかも知れない。
そう考えたら、アンデルセンの童話「裸の王様」の話を思い出してしまった。
○印象的な言葉
・49年の生涯を颯爽と生き抜いた
・自己に課した目標に向け、努力し続けた強い性格、激しい気性
・信長の旗印が「永楽銭」:銭の力で天下を取ってやろうという決意
・公家・寺家・武家の3つの権門が互いに補完し合いながら権力を行使してきたのが中世。そこへ室町時代中ごろから商人が台頭し始めた。
公家・寺家は上手に商人を取り込んでいった。それらの結びつきを弱めるための方策が関所撤廃と楽市楽座。
・当時、日本は世界最大の鉄砲生産国
・信長の関所撤廃、道路拡幅以前は道は狭く、曲がり、川に橋はなく、陸路の物資輸送環境は最悪。それよりも海や川の舟運が発達。
・父・信秀が伊勢外宮や朝廷に大金を寄付していたことは、彼の経済力の凄さを内外(の敵対勢力)にアピールするのが狙い。
・桶狭間の戦い(1560年)頃は”戦国百年”の折り返し点
・土地神話の否定:古代律令制以来続いてきた土地を媒体とする国家の仕組みを変えようとした。茶器など土地以外のものにも付加価値を認めた。
・兵農分離が進むと弓衆・槍衆・鉄砲衆といった武器ごとの集団戦闘が可能となる。常備軍のため組織的な訓練や長期の滞陣も可能
・孫子も一番いい戦い方は戦闘にもちこまずに勝つことだと言っている。
・秀吉は「人たらしの天才」。説得と誘惑の特技
・信長の家臣で「一国一城の主」第一号となったのは光秀。二番が秀吉。
・浅井・朝倉の同盟関係:対等の同盟ではなく、朝倉上位の主従関係に近い。姻戚関係も人質のやりとりもない。
・桶狭間の戦いの頃には伊束法師という呪術的軍配者(軍師)が信長のそばにいた。戦勝祈願の加持祈祷だけでなく、観天望気(天気予報)に長けていた。
・「天下一」の称号は全国一ではなく、京都一といった意味合い
・安土城は四階御殿の上に(禅宗様の)堂塔を載せた形
・安土城に天皇の行幸を迎えるための内裏の清涼殿と同じものを作らせたが行幸は実現しなかった
・信長から名物茶器と茶会を開く権利を与えられたのは重臣のみ:勝家、長秀、秀吉、光秀
・比叡山の焼き討ちでは山上の根本中堂までは焼かれていない
・信長は禅宗系寺院には弾圧を加えていない。俗権が入り込んでいなかったため
・美濃を手に入れた後、岐阜城内に「天主」と名付けた四階御殿を作った
・石山合戦で一向宗とも講和し寺家の力の削減は一段落、次のターゲットは公家だった
・安土城内にハ見寺を建てたのは信長の急な思いつきで、新築ではなく移築だった
・「信長公記」には信長の汚点は記述されない。手取川の敗戦や安土城築城中の事故など。
・松永久秀や荒木村重の謀反は「信長に一度疑われたらお終い」という不安が疑心暗鬼を生んで、引き起こされた。光秀にも通じる
・かつて中央政界を牛耳った久秀や、摂津守護の村重にはそれなりのプライドがあった。本来なら信長よりも上だと考え、不満があった。
・用済みとなれば捨てられる恐怖
・信長の出現は突然変異ではなく、必然的理由があった。商人のパワーに目覚めていた二人の父(実父・信秀、岳父・道三)の存在
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