読書メモ
・「本能寺の変 ―戦史ドキュメント」
(高柳 光壽:著, 学研M文庫 \500) : 2007.02.10
内容と感想:
1977年初出の文庫化。
本能寺の変について本書の説が従来の説とどう違っているのかまえがきで列挙されているから
著者のスタンスがあらかじめ分かって読みやすい。
その著者の説であるが、特徴的なものとしては以下のような点が挙げられる。
・光秀は天下が欲しかった
・本能寺の変は突発事件であり、光秀一個の意中から起こった。またその時機はまたとない最良の時機であった
・変の後、山崎の合戦までの光秀の行動は全力を尽くしたものであった
変に至るまでに光秀は次第に自己の将来に対して不安を抱くようになったと著者は言う。
確かに天下統一は目前に近づき、漠とした不安が浮上しても不思議はない。秀吉にもそれはあったかも知れない。
信長配下の各武将の間にもそんな思いは漂い始めていたかも知れない。
信長政権への多少不満も憂いもあったことだろう。
光秀の保守的な性格が災いし信長とうまが合わなくなったとも書いている。将来の栄達は望み薄と感じていたとも。秀吉の出世も気に掛かる。
巻末の「結語」では光秀は信長に取って代わりえると考え、秀吉の中国大返しも全く同じ目的から出たと断じている。
ここでふと頭に浮かんだのが光秀ははなから秀吉は敵だと見なしたのか、彼を味方に付けると言うつもりはなかったのか、という疑問である。
そんな工作をしていたとしても不思議はない。しかし、そんな事実は後に天下を取った秀吉によって消されているだろう。
もう少し飛躍した想像をすれば秀吉は光秀に協力すると見せかけて、彼をだまし討ちしたのかも知れない(何の根拠もありません)。
変の後、光秀配下の武将は当然自分に味方するものと思っていたようだが、そうはいかなかった。
各武将は信長の命で光秀の組下に属していたようだが、それほど密接な関係はなかったのであろう。光秀はよほど彼らを見込んでいたのか、
付いてきてくれるという自惚れがあったのか?
山崎の合戦での光秀軍の劣勢は彼を包囲する敵に備えるために兵力を分散せざるを得なかったためであり、
何から何まで彼の思うようには事は進まなかった。そもそも謀反自体が大博打であったから、さすがの光秀もそこまで読み切れなかったとしか言えない。
○印象的な言葉
・政治・経済・文化などの諸現象について特別の研究をする必要がないため本能寺の変、山崎の合戦の解釈は容易。
主将の政治力以下、謀略・戦略・戦術を知れば真相の大要は把握できる。
・変の直前の信長の領国は30にも及ぶ(家康の領国も含む)
・秀吉が高松城で清水宗治を切腹させたのは勝利を宣伝するため。毛利との講和で毛利は美作一国を譲渡しただけ。
・頼山陽の「日本外史」は末書
・変の後、秀吉は信長父子が無事逃れたと多くの武将に虚偽を報じて協力を促した
・光秀が山崎から撤退したのは兵力不足のため。隘路から出てくる敵に対してできるだけ兵力を結集して当たろうとした。
・山崎の合戦の勝敗が天王山の争奪にかかっていたというのは誤り。争奪戦はなかった。
・秀吉はいつも敵より優勢な兵力で戦っている。戦術としては当たり前。
・本能寺の変は信長には似合わぬ油断であった。部下の反逆は全く想像できなかった。自身の性格的な欠陥が誘致した事柄であり、その予知は至難。
・急速な中国大返しが筒井順慶を光秀に味方させなかったのであり、もし遅れていたなら細川父子らの去就も変わっていたかもしれない
-目次-
信長の諸国平定
本能寺の変前の形勢
光秀の決意
本能寺の変
二条御所の襲撃
光秀の近畿経営
諸将の行動
秀吉の上洛
細川藤孝と筒井順慶
光秀の防禦
両軍の兵力および素質
山崎の合戦
坂本城の陥落
近江・美濃の平定
清洲の会議
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