読書メモ

・「散るぞ悲しき 〜硫黄島総指揮官・栗林忠道
(梯 久美子 :著、新潮社 \1,500) : 2007.01.14

内容と感想:
 
クリント・イーストウッド監督、渡辺謙・主演の映画「硫黄島からの手紙」が話題になっている(2006年12月公開)。 映画については多くのメディアでも紹介されているのでここでは触れない。
 サブタイトルにあるように、太平洋戦争で日本軍の硫黄島総指揮官として米軍と文字通りの死闘を演じた栗林忠道が 本書のテーマである。タイトルにある「散るぞ悲しき」とは昭和20年3月16日に栗林が大本営に発した電報の中で詠んだ 3首の辞世の句の1つ目の句のの末尾のフレーズである。実はこのフレーズは「散るぞ口惜し」と改変されて 世間には伝えられた。当時、指揮官が死んでいく兵士たちを「悲しき」と詠うことはタブーだったのだ。 彼はこの句が象徴するように最前線の総指揮官としては異色の人物だったと言えよう。
 本書では硫黄島での日米両軍による地獄絵巻をノンフィクション・ドキュメンタリーとして描くと同時に 一家の長として、父として、一人の人間としての栗林の人物像に迫っている。 彼は筆まめな人だったらしく、多くの手紙を本土に残した家族に送っている。おそらく映画「硫黄島からの手紙」の ”手紙”も彼が送った手紙のことを指しているのだろう。本書の中でも取り上げられ、栗林の人柄をよく表している。 アメリカ留学中に家族に送ったイラスト入りの絵手紙なども紹介されている。
 硫黄島での彼は率先垂範、時間に厳しく、即時実行主義で、2万もの全ての兵士と話をし、温情あふるる面もあったそうだ。 今回、硫黄島の戦闘がこれほど悲惨だったことを初めて知った。大本営には見捨てられ、死が確実という極限の状況。 生きて帰れぬならば部下達に”甲斐ある死”を与えたかったのだと著者は言う。
 栗林は陸軍の伝統とは全く反する戦法を採った。徹底的なゲリラ戦である。勝つことではなく負けないことを目的とした。 少しでも長く米軍を島に釘付けにし、より多くの出血を強いることで戦況を有利に、また終戦交渉を有利にしたいという期待があったようだ。 アメリカの世論に訴えて米国民を厭戦気分にさせようとした、という人もいる。 そして最後の総攻撃の日、総指揮官は切腹するのが常識だったが、兵士たちに混じって突撃を敢行した。 彼の最期を知る人はいない。米軍の上陸作戦が始まった”Dデイ”(2月19日)から30日以上もたった3月26日のことであった。
 まさに生き地獄という究極の場にあって栗林のように最後まで冷静に状況判断し、絶望せず、将兵を激励できるだろうか? 現場の最高指導者としての責任を全うし、全能力を駆使して散ったことは、敵の米軍からも尊敬されている。 それに比べて大本営にあった戦争指導者ときたら・・。栗林が送った抗議交じりの電報も活かされることはなかった。 そしてその後も多くの人たちを死に追いやり、苦しめた。我々は忘れてはいけない。国の指導者の間違った選択が国民を如何に苦しめるかを。 政治は他人事だと思っていると、この間の戦争のようなことになるのだと。
 硫黄島の戦場のような悲惨な戦闘が繰り返されることは誰もが望まないだろうし、そんな場所にいたくないと思うが、 そういう場面でも栗林の死後も密かに潜伏し、ゲリラ戦を続けていた兵士もいたそうだ。 これは栗林の訓練や指示がいかに徹底され、彼の考えが全ての将兵と共有されていたかを示すものだと思う。
 突飛な意見かも知れないが、いじめを苦に自殺を考えている子供や生活苦で死を考えている人に是非読んでもらいたい。 昔、こんな立派な日本人がいたんだと。簡単に死を選んではいけないのだと、ちょっと考え直してくれと、きっとそれが伝わるはずだ。 彼らには守りたい家族がいた、守りたい信念があった。だから容易に死を選ばなかったのだ。

○印象的な言葉
・硫黄島の日本軍には30代以上の応召兵が多数を占めた。戦争末期、若く壮健な兵士を集めることが難しくなっていた。
・硫黄島に川も湧き水もなく、雨水を溜めていた。水不足。食料も資材も乏しかった。
・地下陣地作りは地熱と硫黄ガスとの戦いでもあった。地下道は全長18Kmに及んだ。
・栗林はアメリカ留学も経験し、アメリカの国力(軍事力、経済力)を熟知していたため開戦には反対だった。 硫黄島に赴任するまでは特筆する経歴がなかった。
・硫黄島は米軍の日本本土攻撃の最大の足がかりとされた。米軍上陸を前に硫黄島の日本軍を大本営は見捨てた
・硫黄島にはもともと1,000人余りの住民がいたが退去させられた。退去後は男だけの島となった。
・”潔い死”という武士道の美学を許さなかった。潔い死を死ぬのではなく、もっとも苦しい生を生きよ。
・観察するに細心、実行するに大胆
・大局ばかりを語り現実を見なかった戦争指導者たちの楽観的な目論見はことごとく外れた。現場無視の方針は戦場の将兵を苦しめ、敗戦を招いた。 一貫性を欠き、行き当たりばったりの作戦。
・陸軍には英米を知悉した軍人が少なかった。その力を軽視していた。長くドイツを手本としてきた。
・日米合同の慰霊追悼式は毎年続けられている
・戦闘中も移り変わる戦況を電報で克明に報告したり、部下の功績を報告したりとマメであった
・陸海軍の対立は本土決戦を控えた情勢でも大きな問題であったが、作戦思想の不統一は終戦まで続いた
・東京大空襲も原爆も一般市民を無差別に殺傷することでは人道的見地からも大いに問題がある
・最後の日本兵が投降したのは終戦後の昭和24年1月のこと

-目次-
第1章 出征
第2章 22平方キロの荒野
第3章 作戦
第4章 覚悟
第5章 家族
第6章 米軍上陸
第7章 骨踏む島
第8章 兵士たちの手紙
第9章 戦闘
第10章 最期