読書メモ
・「信長私記 ―下天は夢か 」
(津本 陽:著、新潮文庫 \400) : 2007.06.30
内容と感想:
著者が小説「下天は夢か」を執筆するに当たって、多くの史料・資料を調べた。
その執筆ノートともいうべきエッセンスをまとめたのが本書。
信長の時代、日本の人口は1,500〜1,800万人で、その半分が浄土真宗門徒だったと言う。
戦国時代というと戦国大名同士が争っていたというイメージが強いが、その一方で農民と武士との戦いの時代でもあった。
百姓を始め民衆は浄土真宗という信仰のもとに結集し、戦国を生き残るために支配層である武士とも戦った。
著者は「百姓と武士が互いに政治の主権を争奪」していたと言い、「勢力の均衡が微妙な状況」にあったくらい浄土真宗を
始め、宗教勢力の力は大きかったことを再認識させられた。
武士側の信長としてはその現状を放置すれば日本全土が宗教勢力に支配されるかも知れない、との本能的な危機感があったのだろう。
特に信長政権への本願寺の抵抗は激しかったから、もし信長がその抵抗に屈していたら、日本はいったいどうなっていただろう。
9章でこれまで聞いたことがなかったことが書かれている(「下天は夢か」には出てきたのか知れないが読んだのが昔だから忘れているのかも知れない)。
秀吉が攻略中の中国路から光秀謀反の風聞がしきりに流されていたらしく、
その理由は「織田政権の中で光秀が閑却された立場に置かれているらしい」からだそうだ。
織田政権の「内部分裂を謀って虚報を流している」と
信長も真に受けなかったが、それを聞いて、敵から付け込まれ易くなった光秀が疎ましくなったと書かれている。
結局は風聞どおり光秀は四国(長宗我部氏)征伐の大将から外されたことになっている。
しかし光秀はそれで落胆しなかった。自ら立ち上がり主人を討ち、わずかな間だが天下を取った。
天下を取ったといってもまだ日本は統一されていなかった。光秀はどのような構想をもっていたのだろうか?
勿論、十分な構想も持たずに謀反に踏み切った可能性もある。謀反の動機にも様々な説があるようだ。
光秀は信長に重用されていたが、その人柄・性格も十分には理解・分析されていないのではないだろうか。
○印象的な言葉
・信長の性格:攻撃性と猜疑心。広い視野、きわめて日本人的な虚無感。常識を顧みない。面目も気にしない。徹底した合理性
・織田と朝倉は尾張と越前の守護・斯波氏のそれぞれの家老で、それぞれ下克上で主人にとってかわった。
・越前にいた斯波氏が朝倉に追われ、織田氏を伴って尾張に来てから織田と朝倉の敵対は始まった
・御狂い:合戦の演習のこと
・戦国期の侍には忠孝の観念はなかった
・15歳の藤吉郎(のちの秀吉)は近所の那古野城にいた信長の家来にはならず尾張を出た。このときは信長の前途が開けるとは考えていなかった。
家督相続したばかりの信長にはまったく人望がなかった
・戦いの勝敗は七割が戦場へ出る前に決まっている。その七割は情報戦。戦国大名は忍者の頭領のようなもの
・武田勝頼は信玄の後嗣ではなく、勝頼の嫡子・信勝に家督相続させよと遺言されていた。勝頼は武田の軍旗を使えなかった
・紀伊雑賀衆との対戦で鉄砲足軽隊の増強を意識するようになった
・戦国期の畿内は地侍の力が強く、足利義輝を殺害して畿内を制圧した三好氏が地侍を懐柔する方法は官位をもらってやることだった
・京都の経済の実権を握っていたのは上京の町衆で、金貸しをなりわいとしていた。経営者の3/4が延暦寺の僧侶が還俗した者。
・所詮、地侍は葡萄の粒、どの主人に付こうとかまわない
・応仁の乱以降、京が焼け野原となり技術者の仕事が激減、諸国放浪の旅に出る者も多かった
・慎重を旨とする信長、一度の戦いで再起不能のなるような、大きなダメージを受けかねない危険な賭けは避けた
・信玄の生涯にはいかに人を瞞(だま)し、利用し、捨てるか、ばかりを考えていたと思える時期がある
・野武士:利によってのみ動く。世間のあらゆる階層の人間との密接な交流。技術者を集めるルートも知っていた
・秀吉:下の者に愛される稀有な頭領の才、人格
・信長には生涯にわたって軍師と呼べる者はいなかった。計画立案はいつも一人で
・雑賀衆:ひろく諸国と交易をおこない、裕福。用いる鉄砲は小型・軽量、耐久性にも優れた。一挺の値段は足軽10人分の扶持に相当
・真言宗を奉ずる根来衆と、浄土真宗門徒の雑賀衆
・信長は優秀な技術者に「天下一」の称号を与えた
・自分の目的達成のための道具としての有効性を判断し、価値を認めた
・征夷大将軍には朝廷に仲裁を求める権利があり、信長も将軍になりたかった
・信長は初めは藤原姓を名乗っていたが、上洛してからは平姓に改めていた
・細川藤孝は義昭の異母兄弟とも言われる
・信長は人使いが荒かった。弱小国人大名を帰伏させ、所領を安堵しても、酷使し損耗を重ねたあげくは、調略で窮地に陥れ自滅させた
・戦国大名は感情には動かされず、理性の戦いをした
・リーダシップを取る者は、性格明朗で、諧謔・ユーモアを解する性格
・家来たちの望みを満たすような施策をする主君は、家来達と同じ思考水準にある
・当時の日本の人口は1,500〜1,800万人。その半分が浄土真宗門徒。重税に苦しむより信仰による安楽な生活を求めた
・戦国のあさましい世にいきる庶民が現世を厭い、浄土に迎えられるのを願った。乾きひからびた心を潤した
・焼き討ち:暴行、略奪。謙信の軍隊でさえ行なっていた。民度の高い畿内で焼き討ちをすれば一向一揆が蜂起する
・信長が下人たちを平百姓に変え、開墾地を与えたため農地が激増した。江戸初期までに農地は3倍、人口は2倍になった。民衆に生きていく意欲を与えた
・当時のポルトガルの人口は150万、ロンドンが5、6万、パリは十数万
・光秀は外交面で一番活躍。徴税官僚としての能力も買われていた。近畿軍管区司令官、かつ信長の近衛師団長とも言える立場。
かつての反信長勢力との折衝役も任され、畿内諸豪族とも円満な対人関係を築いた
・光秀は城攻めは巧みだったが野戦は苦手だった。臆病で野戦を避けたがった
・信長の天下の基盤がゆるぎないものとなり、光秀の存在価値が次第に希薄になり、軍政に参与する必要度合いも減ってきた
・本能寺の変の当日(6/2)、信長は朝廷に参内し、(将軍の)官位を受けるか否か、暦の改正についてメッセージを発表する予定だった
・信長の時代の日本は、軍事、経済、教育程度、どれをとっても世界の超大国だった
・勇気がなければすべて画餅。誰もやらない新しいことを行なうときには勇気
-目次-
1章 人間信長の形成
2章 情報と調略の戦い
3章 戦略家としての信長
4章 鉄砲の衝撃
5章 信長のリーダーシップ
6章 信長の女性観
7章 経済の改革
8章 本願寺法王国への挑戦
9章 明智光秀反逆の謎
10章 幻に終った海外雄飛
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