読書メモ
・「合戦の日本地図」
(武光 誠、合戦研究会:著、文春新書 \790) : 2006.11.23
内容と感想:
日本史に残る重要な20の合戦を地方ごとにまとめた本。「はじめに」にもあるように日本人同士が殺しあう大掛かりな合戦は明治の西南戦争(1877年)以降ない。
もっとも、大坂夏の陣(1615年)で徳川家康が豊臣残党を黙らせてから幕末までは250年も泰平の世が続いていたのだが。
地方ごとに主な合戦のポイントが地図を示しながら解説されている。それぞれの合戦がその時代のその土地で、どういう位置づけで行なわれたものであったかが分かる。
本書で取り上げている最も古い合戦は1183年の倶利伽羅峠の合戦(木曽義仲の勝利)である。
本編に入る前の第1章では映画やTVの大河ドラマなどで植えつけられた歴史認識が正しくないことを教えられる。本編よりもこちらのほうが興味深かった。
長篠の合戦の鉄砲隊と騎馬武者の戦いや、関が原合戦のような集団による大規模で派手な合戦が日本各地で、昔から繰り広げられたわけではない。
古き良き時代(?)は一騎討ちのようなより牧歌的で、ノンビリとした戦いだったようである。
平安時代後期に武士が発生するまでは、余程のことがない限りは軍勢同士の白兵戦など接近戦は行なわれなかったようだ。
武器の発達に従って、戦術も変化していった。騎馬武者が乗る馬も現在、競馬場などで見られるサラブレッドではなく、もっと小さな種であった。
日本刀は3、4人も斬れば使い物にならなくなる。槍は突くのではなく、相手を叩くものだった。武田氏の騎馬軍団などは馬上での切りあいが得意だったわけではなく
その機動力と神出鬼没さが恐れられた。などなど、我々が如何に間違った常識を信じてきたかを思い知らされる。
さて、本編に入って、明治初期の函館戦争で榎本武揚の旧幕府軍が政府軍と闘ったとき、榎本軍にはフランスから招聘された約10人の軍人が加わっていたそうである。
彼らは「日本人の気高さに感銘を受け」、榎本に従ったと言う。映画「ラスト・サムライ」を連想させた。この史実が映画の題材になったのかも知れない。
本書の面白い点は各合戦ごとのまとめに、それぞれの主役の武将など、その地方の出身者ならではの気質を
合戦の勝敗と結びつけて分析している点だ。同じ日本人でも昔から地方によって気質の差があるようだ。
最後の章では中世の合戦の多くは、日本が機能的なまとまりをもつ国家になるために欠かせなかったとまとめている。
その過程があったからこそ「日本は一つ」という意識が広く受け入れられ、幕末の騒乱時にも日本が分裂することはなかったと言う。
もともと争いを好まない日本人は、再び戦国の世のような内戦状態には戻りたくなかったことであろう。
もし長い内戦が続いていたとしたら、英仏など列強の代理戦争のような形になり、分割され植民地化されていたかも知れないのだから。
○ポイント
・現代の戦争であっても最終的には歩兵どうしの戦闘で勝敗を決めることになる
・縄文人は争いを避け、移動する道を選んだ。朝鮮半島から移住してきた弥生人が日本列島に武器を持ち込んだ
・江戸時代になり平和が続くと集団戦の訓練がおろそかになった。戦力は戦国時代よりも劣っていた
・函館戦争の終結は戊辰戦争の終結、そして明治政府が全国を平定したことを意味した
・幕末の鶴ヶ城(会津若松城)は熊本城と並ぶ難攻不落の城
・鎌倉幕府滅亡の遠因は2度の元寇による、御家人たち武士階級の経済的な困窮
・武田信玄の信条は七分勝ち。時間をかける手堅い戦法
・上杉謙信は即決、ワンマン型の武将
・石田三成は関が原ではなく、箱根辺りを決戦場にすべきだった
・家康は武芸を好み、質素な生活態度を変えなかった
・長篠の合戦の鉄砲の三段撃ちは疑問だらけ
・桶狭間合戦のきっかけとなった今川義元の軍事行動は上洛が目的ではなかった。義元は”狭間”から連想されるような窪地で休んでいたわけではない
・本能寺の変の後、光秀は勢いを作り出すのに失敗した。秀吉には光秀の常識は通用しなかった。
・秀吉は圧倒的に有利な場合を除いて、戦いを避ける生き方を続けた。安全策をとり続け、相手のつけ込む隙を与えなかった
・源平争乱の頃には東国に開墾可能な土地がほとんどなくなっていた
・関東の地方政権としての性格を強くのこした鎌倉幕府の遠方の武士への指導力は弱かった
・室町幕府も各地の守護大名の指導力も不十分だった
-目次-
第1章 武器の発達と戦術
第2章 北海道・東北地方の戦い
第3章 関東・中部地方の戦い
第4章 近畿地方の戦い
第5章 中国・四国地方の戦い
第6章 九州地方の戦い
第7章 合戦がつくった日本史
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