読書メモ

・「街道をゆく 9 - 信州佐久平みち、潟のみち ほか
(司馬遼太郎:著、 \520、朝日文芸文庫) : 2003.05.28

内容と感想:
 
司馬氏の紀行文「街道をゆく」シリーズは、NHKにより映像化されTVで放映されたりして、時々時間が合えば見たりこともあったが、その中に本巻の「信州佐久平みち」があったかどうかは知らない。信州上田に来て1年が過ぎたが、司馬も信州を訪れていたことを本書の背表紙で知り、すぐに読みたくなった。本巻は信州だけではなく、越後(「潟のみち」)、播磨(「播州揖保川・室津みち」)、紀州(「高野山みち」)などの街道もあって、決して内容が濃いとは言えないが、氏が信州を訪れて、どういう印象を持ったか興味があった。まず、本の構成上では最後の章になった「信州佐久平みち」を真っ先に読んだ。悪く言えば残りの章はどうでもよかった。
 司馬の「街道をゆく」旅はいつも一人ではなく、須田画伯が同行している(各章の頭を飾る挿絵を描いている)。その他にも行き先によって、それぞれ異なる連れがいるようである。
「信州佐久平みち」では上田から軽井沢にかけての佐久平の地図が描かれており、氏らが辿った道を想像するのを助けてくれる。興味を引かれるのは、信濃(シナノ)国に多い地名、”xxシナ”(x科、x級)の語源に触れたものや(シナが何を意味するか、定説はないらしい)、佐久平の人々は今でも武田信玄が嫌いらしいという話、今でも上田は「真田の上田」のつもりで、仙石氏や松平氏の時代の記憶もなく、無視したいらしことなど。
 氏の紀行文には歴史小説家らしく、その土地の歴史に触れないことはないが、現代の商業主義により変貌した光景に、訪問前に想像していた古きよき時代とのギャップをいやでも感じさせられるといったような感想を率直に述べている。特に小諸城址(懐古園)を訪れた際に入った食堂の店員の客あしらいに対する感想が、憤懣を押し静めるような文調で書かれていたのは可笑しかった。信州人に対する期待が過剰だったと、冷静さを取り戻す。氏を落胆させたのは残念だと思うが、どこの観光地も同じとは思いたくないものである。
 紀行文は単に訪ねたその土地だけで完結しない。特に「街道をゆく」の”街道”は切れ切れに存在するのではなく、それぞれの街道が連結して各地を繋いでいる。「高野山みち」の章では関ヶ原合戦後、真田昌幸・幸村が流された紀州・九度山を訪ねている。遠く離れてはいるが、これは”真田つながり”であり、高野聖と善光寺聖、別所(温泉)は”聖つながり”であったりする。
 また土地の歴史・風土は宗教、特に日本では仏教とは切り離せないものであったりする。我々若い世代にはあまり実感がないかも知れないが、意識しなくとも何らかの影響を受けたり、見たりしているものだ。
 わずかに付け加えられた田中角栄逮捕、ロッキード事件などの話題が、氏が旅した頃の時代背景を物語る。氏が訪れた風景も、今は変わってしまっているだろうか?
 旅行ガイドもいいが、こういう紀行文を旅する前に読んでおくのもよいかも知れないと、ふと思った。

更新日: 03/07/26