読書メモ

・「逆説の日本史3 古代言霊編
(井沢元彦:著、 \619、小学館文庫) : 2003.05.05

内容と感想:
 
シリーズ「逆説の日本史」の文庫版の第三巻。
 読む順番こそ支離滅裂の私であるが、一連の著者のシリーズのキーワードは一貫して「怨霊」、「言霊」である。氏は言う。日本の政治は古代から中世初めまでは「呪術政治」であり、政治と文化はきっちり分けられないと。だから平安建都も万葉集の編纂も全く分けて考えるべきではないと。
 本巻でカバーする時代は以下の目次にあるようなトピックが登場する奈良時代から平安時代初頭。8〜9世紀頃のことである。

第一章 道鏡と称徳女帝編 
第二章 桓武天皇と平安京編
第三章 「万葉集」と言霊編

 まず、道鏡と称徳女帝との関係。日本史の授業の知識くらいしかなかったが、教科書に書かれない様な下品な噂話は昔から私でも知っている。著者はそもそも、その道鏡と称徳女帝の間に”愛人関係”があったとは考えられないとの立場。二人と対立した藤原氏(「寄生虫」集団とまで言う)が、彼らの功績を認めさせないためにデッチ上げた、と言う。その愛人関係が噂されるようになったのは、中国の故事「奇貨おくべし」とよく似た背景があったことから来た誤解だと説明する。
・弓削道鏡:ただの僧であったが、称徳女帝の寵愛を受け、法王にまで上り詰める。が譲位問題で排除され、左遷される。日本三大悪人の一人との評判。
・称徳女帝:この人は女性で一度、孝謙天皇として即位・退位した後、再び天皇位に返り咲いたという。道鏡に天皇位を譲ろうとするが、周囲の同意を得られなかった。彼女の功績として、最初の天皇位から退位後、藤原仲麻呂(恵美押勝)が、唐が「安禄山の変」で混乱中をよいことに新羅征討を行おうとしていたのをクーデターにより阻止したことだと著者は言う。もし征討が実行されていたら逆に日本が滅ぶ事態にもなりかねない無謀な計画であったらしい。

 次に、平安建都。日本史では”遷都”というのが一般的であったと思うが、一から都を造るの意味で”建都”という言い方もあるようだ。なぜ桓武天皇は平安京を建都しなければならなかったか?それは王朝の交替によるものだと言う。桓武はそれ以前の歴代の天武系の天皇ではなく、天智天皇の血統である。天武と天智は兄弟とされているが、実は違うらしく、その意味でまったく血統の異なる天皇が誕生したことになる。桓武は平安京建都の前に実はもう一つ都を造らせている。長岡京である。その都の造営長・藤原種継の暗殺事件が建都反対派によるものとされ、その一味として桓武の弟・早良親王を流罪に処し、死に至らしめた。長岡京着工のわずか5年後には平安京着工となる。これは無罪を叫んで死んだ早良親王の祟りを恐れて、怨霊から逃れるために風水説に従って計画的に建都した(結界を造った)、と言う。
 桓武の業績のひとつに徴兵制による軍隊の廃止がある。その反面、蝦夷征伐もやっている。

 最後の万葉集。これは通説では大伴家持の手によるもの(編纂、撰者となった)で、奈良時代に成立した、とされている。しかし著者はこれに異を唱える。まず家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして官位を剥奪されたまま病死した。罪人の手による歌集が世に出ることはあり得ず、桓武の遺言により名誉回復となった西暦806年(既に平安遷都しているから、平安時代)以降しかあり得ないとしている。
 万葉集は鎮魂歌集でもある。一般民衆の歌もあるが、無実の罪を着せられて死んでいった皇族らの歌も収められている。国家の側からみれば反逆者とされた人々である。他国なら記録からも抹殺され、歌が残されるようなこともないが、日本の古代にはあった。これも怨霊を恐れんがためである。

更新日: 03/05/07