読書メモ
・「日本戦史 戦国編2 〜激闘!大包囲戦」
(編集部:編、 \580、学研M文庫) : 2002.11.10
内容と感想:
戦国史に残る幾多の合戦のうち、広域、長期に渡る大規模な戦いを7つ取り上げて、攻防の遷移やその政治的な意味を解説している。地図で各武将や軍勢の動きを示し、勢力図などもありイメージしやすい。学研の雑誌「歴史群像」の内容を再編集。
第一章 風林火山 信州制圧戦
甲斐・武田信玄の信濃への勢力拡大の道のりが平坦ではなかったことを示す。本書の視点では信玄は一般に知られるカリスマ的存在ではなく、家臣団の合議制の中で担がれた象徴的存在に過ぎない。その家臣団たちのせいで信玄の上洛、天下取りの野望は夢と消えたと結論づけている。
第二章 石山十年戦争
浄土真宗本山、大阪・石山本願寺は盟主・蓮如が各地の宗徒を巧みにコントロールし、信長を初め多くの大名ら支配者たちと衝突を繰り返していた。時には反信長側の大名と連携したりして共通の敵に当たることもあった。特に信長との間で10年に渡り繰り広げられる攻防戦は、幾度となく信長の野望を窮地に陥れた。
第三章 三方ヶ原合戦
信濃を平定した信玄はついに上洛を目指して西へと動き始めた。まず遠江(静岡県)へ南下した信玄は信長の同盟者・家康の支配地を蹂躙し始める。信玄から見れば家康なぞ赤子の手を捻るようなものであり実際、家康も風前の灯火かと思われるくらいの窮地に陥る。しかし信玄の最後の遠征となるこの戦いは、信玄の病気もあり以外にも長期戦となり、その動きは遅かった。そして信玄の死というあっけない幕切れで、信長・家康連合は命拾いすることになる。
第四章 長篠合戦の戦略
信玄の死後二年、後継者の勝頼は父の上洛の夢を受け継ぎ動き出した。三河(愛知県)の長篠城を巡る攻防戦は上洛のための前哨戦であり、長篠を落として家康を孤立させ徳川領を手中にした後、信長と対決する予定であった。またしても家康は危機に陥り、信長の援軍を待つも腰が重い。しかし援軍到着で形勢は五分と五分。巧みな戦術で設楽原と呼ばれる狭隘な地形に誘い込まれた武田軍は完敗。数多くの重臣を失い、これを境に武田家は滅亡に向かっていく。
第五章 上杉謙信 手取川の勝利
信長が恐れたもう一人の男、謙信は共通の敵・信玄に当たるため一時、信長と同盟関係にあった。しかし信玄の死で情勢は変わり、両者は北陸を舞台に激突することになる。関東管領となっていた謙信は天下取りの野望を持たず、関東諸将の要請により毎年のように援軍を東奔西走させる義の人であった。しかし北陸まで勢力を拡大してきた信長と衝突するのは必然であった。信長包囲網に加わった謙信は能登・七尾城を落とし、更に南下して柴田勝家を大将とする織田勢を手取川対岸にまで押し返した。織田軍は大損害を被ったが、今度は翌年に謙信が急死するという幸運もあり、信長の野望の障害はまた一つ取り除かれた。
第六章 有岡城攻防戦
摂津(大阪府)有岡城主・荒木村重は信長の重臣としては新参であったが重用され、中国地方の毛利への押さえとして重要な役割を担っていた。しかし播磨(兵庫県)攻略に梃子摺っているうちに指揮権を秀吉に奪われたりして、信長の寵を失いつつあると感じ始め、ついには謀反という博打に出る。信長包囲網と連携すれば勝機はあると信じての謀反であったが、頼みの毛利水軍が敗れ、篭城するも戦略上、信長はこれを無視し、秀吉の播磨攻めに梃入れするために軍勢を割いたりしている。荒木家臣団の寝返りなどもあり次第に勢いを失った村重は孤立し、有岡城は落城。自身は家族・郎党を見捨てて脱出し、毛利に頼るという武将としては情けない結果となった。
第七章 激闘 賤ヶ岳合戦
信長死後、秀吉にとっての天下取りのための天下分け目の戦い。信長の遺志を継ぐものとして織田家重臣・勝家と秀吉は同じ織田家中にありながら、支配体制を巡って近江(滋賀県)の琵琶湖畔で激突することになる。しかし中国大返しで光秀を討った秀吉の勢いは違い、織田家中の多くの武将は秀吉になびいていく。両軍は一度は賤ヶ岳で対峙するものの、岐阜で信孝(信長の三男)は伊勢の滝川一益と連携して、秀吉に対抗する動きを見せると、秀吉は兵を大垣に向かわせ、柴田勢を誘い出す作戦に出る。これに見事に佐久間盛政が誘われ戦線から突出すると見るや秀吉は大垣からまたもや大返しをやってのけ、孤立した盛政を叩き、柴田勢を追撃。柴田側の前田利家父子が抵抗せず戦線を離脱すると、柴田勢は越前へ逃げ帰るしかなかった。勢いに乗じて秀吉は北ノ庄へ攻め入り、勝家を滅ぼす。
更新日: 02/11/16
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