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辺りは一面、血の様な赤に染まっていた。生い茂った葦の群れは黒々とした影を落とし、水面は油を流したかのように静かだった。夕暮れなのだと、乱太郎は思う。
桟橋にしゃがみ込み、ただ、待っている。それも何時もの事。やがて微かに水音をさせて船が着く。利吉の乗った小さな船だ。
「やあ、待たせたかな」
何時もの優しい笑顔に、何故か泣きたくなる。
「ううん、平気」
頭を振って言うと、手が差し伸べられる。少し冷たい大きな手。よく知っているその手に掴まり、揺れる船に乗る。
「行こうか」
利吉の呟きに、船は滑るように動き出した。
ちゃぷりと小さな音を立てて、暗い水面が揺れる。時折、船が擦った葦の葉が、さわさわと擦れる音がする。
辺りは既に暗く、利吉だけが見えた。ずっと会いたかったのだ。大好きな、優しい人。会わない間に話したい事が一杯溜まってしまった。
「あのね、利吉さん」
「うん」
「今日ね、学園でねぇ…」
利吉は眼差しを優しく弛めたまま、乱太郎の話す言葉に聞き入り、相槌を打つ。そして時々、それから?とか、どうしたの、と先を促すのだ。利吉の低くて優しい声は耳に心地良くてずっと聞いていたいと思うのだけれど、何故か何時も自分ばかりが話している。
「利吉さんも何か話して下さい」
「ふふ、私の事よりも乱太郎の話を聞かせてくれないかな」
話をねだると、優しい眼差しがいっそう優しくなって、乱太郎はまた、話を始めるのだ。
静かに進んでいる船は、やがて葦の原から出ようとする。固まる様にして生えている葦の群れが不意に途切れて、何もない一面の水面だけになるのだ。真っ暗で何も見えないのに、遥かに広がる水面は微かに光を帯びていて、それと分かる。
『乱太郎…』
そこまで来ると、何時も必ず誰かが自分を呼ぶのだ。もっと利吉と居たいのに。利吉の顔を見て、その声を聞きながら話をして居たいのに、それでも、自分を呼ぶその声には抗えなくて。
「利吉さん、私、帰らなくっちゃ…」
別れなければいけない事を悲しく思いながらそう言うと、利吉もやはり寂しそうな顔をして、それでも頷いてくれるのだ。
「ああ、そうだね」
そうして、桟橋に着くまでの間、乱太郎は利吉にしがみついている。何時でも会える筈なのに、別れる時は何時だって怖いのだ。二度と会えないのではないか、と。そんな事にはならないという事は分かっている。自分はとても利吉が好きだし、利吉だって自分の事を好いていてくれる。それなのに、その恐怖は心の底に張り付いていて、思い出したように浮き上がって来ては、乱太郎を怖がらせるのだ。
こつん、と小さな衝撃があって、船は桟橋に着いた。離れ難くて何時までもしがみ付いている乱太郎を一瞬きつく抱きしめて、利吉はそっと口付けを落とす。触れるだけの口付けなのに、乱太郎の胸は何か狂おしいもので一杯になってしまうのだ。もっと利吉と触れ合いたい。この腕の中にずっと居たいのだと。それでも、乱太郎は立ち上がり、船を下りる。
「利吉さん…」
「また明日、待っているから」
「うん。お休みなさい」
さよならを言ってしまうと二度と会えない気がするから、言わない。利吉はずっと自分を見送っていて、何度振り返っても其処に居る。だから、振り返らない。
辺りは真っ暗で足下さえ見えないけれど、道は分かっているので迷わない。しばらく歩いて行くとやがて学園の寮に着く。音を立てないように静かにそっと戸を開けて中に入ると、キリ丸が居る。
「お帰り、遅かったな。しんべヱは先に寝ちゃったぜ」
「ただいま。ごめんね、何時も遅くなっちゃって」
そういうとキリ丸は、気にすんな、と笑う。それから冷たい布団に潜り込み、先刻まで感じていた利吉の温もりを思い出す。それは奇妙に曖昧になっていて、乱太郎は必死で思い出し、それにしがみつかなくては成らないのだ。
漸く思い出した頃に、乱太郎は利吉に会うことを思いながら眠りに落ちるのだ。
そう言えば、利吉は酒が好きだったと、乱太郎は思い出した。何故、思い出したのかも分からなかったけれど、逢いに行くのに利吉の好きなものを持って行くという事は、悪い考えには思えなかった。
酒の入った徳利と、杯を持って、桟橋に向かう。徳利の酒がちゃぷちゃぷと音を立てる度に、心が浮きだった。利吉に会えるのが嬉しい。利吉が好きなお酒を飲むのを見るのも、好きだ。ゆっくりと酒を舐める利吉は、本当に寛いだ表情をしている。穏やかな声も、優しい眼差しも、自分だけの為の物なのだと、乱太郎は知っていた。
他の誰と居ても、利吉は気を張っている。笑っているけれど、時折酷く冷たいものを感じるのだ。分かっているよ、信じているよと言いながら、信じている振りをしているのだ。そんな利吉の本音に気付いた時にはとても怖かったけれど、自分を見る眼差しの優しさに嘘がない事にはすぐに気が付いた。そして、自分だけが、利吉の心の側に行けるのだ、と。それを知った時にはとても嬉しかった。怖いと思いながらも、利吉の事が好きで堪らなかったから。そして、利吉は何時だってとても優しくて。だから、時々泣きたくなる。とても幸せで、そして不安だから。
桟橋にしゃがみ込んで、赤い空を見上げる。目が痛くなる程の、生々しい赤い色。見た事は無いけれど、血はこんな色なのだろうか。
「乱太郎くん…」
声がして、乱太郎は我に返った。利吉が来ていた。乱太郎は嬉しくて、急いで立ち上がると利吉の手が差し伸べられるのももどかしく、船へと移った。
「利吉さんっ」
「ああ、危ないよ」
ぐらりと船が揺れ、固く利吉に抱き止められる。そのまましがみついていると利吉は少し笑った様だった。何かがそっと髪に触れる。それが利吉の唇だと気付いて赤くなる。恥ずかしい。でも、とても幸せなのだ。
利吉はそのまま、腰を下ろした。あやす様に優しく乱太郎の肩を抱く。
「どうしたんだい。今日は甘ったれだね」
「いけませんか」
「否、嬉しいよ」
膝に抱かれて髪を撫でられると、とても安心する。どうしてもっと早くにこうしていなかったのだろう。向かいに座って、お喋りをしていただけなんて、本当に勿体無い事をしていた。広い胸に頬をすり寄せる。口付けが一つ、落ちて来て。
「行こうか」
そう言った利吉に、乱太郎は黙って頷いた。
音も無く水を分けてゆっくりと進む小船の上で、乱太郎は思い出した様に言った。
「今日は好い物を持って来たんですよ」
「へぇ、何かな」
「これです」
そう言って徳利を出し、軽く振って沢山入っているのだと示す。杯も出してから利吉を見上げ、乱太郎は戸惑った。利吉が奇妙な顔をして、それを見て居たから。
「利吉さん…?」
「あ、ああ。ごめんよ、ちょっと驚いただけだから」
そう言って笑った顔は何時もの利吉だった。乱太郎は何故か不安になったけれども、それを押し殺す。
「有難う。じゃあ、さっそく頂こうかな」
乱太郎の手から杯を受け取る。乱太郎は徳利の栓を抜き、酒を注ぐ。何処か、花の香りにも似た甘く豊かな酒の香が広がる。と、今まで意識しなかった水の匂いがした。一面に広がる水は流れてすら居ないのに、少しも澱んで居ず、山の湧き水のように透き通った匂いだった。それが、心に引っ掛かる。
「いい香りだ」
利吉の眸が優しく弛み、酒を含む。とろりと甘い、上等の濁り酒だ。乱太郎は自分の好む物を覚えて居てくれた。否、忘れた事など、一度だって無かった。
「美味しいよ、とても良い酒だ。有難う」
酒はその味だけではなく、甘く、利吉の心に沁み込む。愛しくて堪らない、小さな小さな、恋人。何を欲しいと思ったことも無かった自分が、初めて欲しいと思った、大切な、可愛い人。至らない自分は、多分何時も一番大事な所でこの子を悲しませてしまうだろう。
「乱太郎もおあがり」
杯を持たせ、注いでやる。花弁のような唇が酒を含んで濡れる。
「甘くて美味しい…」
自分を見上げて笑う顔は、本当に花の様だと思う。お日様の匂いのする、暖かで優しいこの子は、自分には勿体無い位に良い子なのだ。乱太郎が杯を返し、酒を注いでくれる。狂おしく湧き上がる愛情を押し殺し、利吉は酒を舐めた。酒も、腕の中に乱太郎が居るという事も、甘い。ずっと、この時間が続けは良いのに。そう、思うのは自分だけなのだろうか。
他愛の無い話をして、二人きりの時間を過ごす。船は静かに滑って行き、やがて葦の原を出ようとする。そして、乱太郎が言うのだ。
「利吉さん、私、帰らなくちゃ」
その言葉に抗う術は無い。乱太郎が帰りたいのなら、止める事は出来ないのだから。
「ああ、そうだね」
その言葉で、船は桟橋へと戻り始める。辺りはすっかり暗くなり、漆黒の闇が二人を押し潰しそうに包んでいた。
静かに滑る小船の中で、利吉は堪らない思いを噛み締める。乱太郎に会えるのは今夜が最後かも知れない。それ程までに、自分達は離れてしまった。今夜は何時もと違って、乱太郎は酒を持ってきた。離れて居たくないと、ずっと腕の中に居た。それが離別を示して居る様で。
「利吉さん…」
「うん」
「あのね、大好き。本当は私…」
抱かれたまま、うっとりと乱太郎が言う。が、その時、船は桟橋に着き、乱太郎は言葉を飲み込んだ。そして、ひどく悲しそうな顔をした。胸が痛くなるほどの愛しさと切なさを隠して、笑い掛ける。そんな顔をすると手放せなくなってしまう。静かに見送ることが出来なくなってしまう。これから過ごす長い時間を、一人で居ることが出来なくなってしまう。
「利吉さん…」
桟橋に立った乱太郎が、何か言葉を待っている。また、明日も待っていると、今夜はもう言えない。けれど、さよならを言う事も、出来ない。暫くの間黙って見詰め合っていたが、言葉を貰えないと諦めた乱太郎が小さな背中を向けた時、利吉は堪らずにその小さな手を掴んで居た。
「利吉さん」
「私は、あの時きみの手を離してしまった事をとても後悔しているんだよ。叶うなら、もう二度とこの手を離したくないと思っている」
怖い程に真摯な眸で見つめられ、乱太郎は困惑した。あの時とは、一体何時のことなのだろう。自分は・・・。
「けれど、後悔すると分かっていても、私はまた手を離してしまうんだね。ごめんよ、私は乱太郎を悲しませる事しか出来ない」
悲しげな眸は、痛いほどの愛情を隠している事を乱太郎は知っている。
「ううん、私、利吉さんと居るとすごく嬉しくて楽しくて…、悲しい事なんて何にも無いんです」
泣いてしまうのは、少しでも離れることが悲しいから。利吉が居ないことに耐えられない程、弱いから。好きで好きで堪らない人。その言葉に利吉は笑った。優しい、何時もの笑顔。やはり、帰りたくは無い。船に戻ろうとしたけれど、自分を呼ぶあの声が強くて、足が踏み出せない。
「もう、お行き」
何かを知っている顔で、利吉が言う。悲しくて涙が出そうだった。このまま頷いてしまったら二度と逢えない気がして、乱太郎は泣きそうな声で言った。
「明日、また来ますから。利吉さん、何時もと同じに待っていて」
その言葉に利吉は嬉しそうに笑った。大好きな、極上の笑顔だ。それなのに辺りの暗さは増していて、利吉が頷いてくれたのかどうかも分からない。
不意に。
水の気配も、利吉の気配も消えて、一人、闇の中に取り残された。怖いよりも悲しくて、乱太郎は泣き出した。しつこく自分を呼ぶ声を恨めしく思いながら、それでも、その声に引かれて、乱太郎は暗い道を歩きだした。
「乱太郎、乱太郎!」
しきりに自分の名前が呼ばれる。この声の所為で自分は利吉と離れなければ成らなかったのだ。うるさい、と言おうとして、乱太郎は声が出ないことに気付いた。ひりひりと灼け付くように咽喉が痛む。咽喉が痛み出すと、思い出した様に体のあちこちが痛みを訴える。世界が酷く明るくて、乱太郎は閉じていた瞼を更にきつく瞑った。今まで、何も見えない闇の中だったのだ。時間が経って少し慣れた所で、そっと目を開けた。
自分の上に有るのが、誰かの顔だと言うことに気が付くのに、少し時間が掛かった。
「良かった、乱太郎。気が付いたんだな」
「ずっと眠っておったから、もう起きてはくれんのでは無いかと、心配したんだぞ」
聞き覚えのある声は、けれど聞きたかった声ではなかった。此処は何処で、一体何がどうなっているのだろう。聞きたくても、声がうまく出ない。何かが唇に触れた。水の匂いに急に咽喉の渇きを覚えた。口の中が粘ついて気持ちが悪い。口腔に流れ込んできた水はぬるくて、味がしなかった。
「…私…」
やっと出た言葉はそれだけだった。けれど、それで充分だったらしい。見知った顔の一つが居なくなり、代わりに違う顔が見えた。キリ丸だ。
「お帰り、乱太郎」
何時もと同じ言葉に安堵する。ああ、キリ丸。私なんだか変な夢を見ているみたいなんだ。そう、言いたかったのに。
「もう、ダメかと思ったんだぜ。すごい怪我だし、今夜が峠だって言ってたから。今、新野先生が来るからな。でも、お前だけでも助かって良かった…」
キリ丸は何を言っているのだろう。怪我って、この体の痛い事だろうか?峠って何?お前だけでも助かって良かったって…?
「キリ丸、静かに。乱太郎が疲れてしまうだろう」
「あ、わりぃ。でも、乱太郎、何であんな所に居たんだ?」
静かに嗜める声がして、キリ丸は声を潜め、最後は独り言のように言った。
あんな所?そう反芻した時、乱太郎はすべてを思い出したのだ。ああ、どうして忘れて居たのだろうか?
あれは、最後に利吉と逢った場所。空が赤いのは、炎と血に染められていたから。そして、利吉の言葉の意味も。あの時手を離してしまったのは、利吉の所為だけではない。自分だって離してしまったのだ。痛いほどにきつく握っていてくれたのに、その手がだんだん白く、冷たくなっていくのが怖くて。どうして怖いなどと思ってしまったのだろう。大好きなのに。命がけで自分を守ってくれたのに。
悔しくて悲しくて涙が零れた。逢いたくて切なくて、胸が痛い。嗚咽が上がってくると体中から痛みが上がって息が詰まりそうになったけれど、涙も嗚咽も止まらなかった。ただただ、利吉が恋しくて堪らない。どうしようもない恋慕の情と体の痛みに、乱太郎の意識は再びやみに沈んだ。
真っ暗な闇の中に、一人で居た。堪らなく利吉に逢いたかった。乱太郎は慣れた道を歩き出す。利吉の好む酒の入った徳利はちゃんと持っているし、今日はもう一つ、用意したものがあるのだ。利吉が喜ぶ様子を思い浮かべて、乱太郎はなんとも言えない幸せな気分になった。
桟橋が見えた。其処には、船の陰が有る。利吉さんだ、と思うと乱太郎は駆け出していた。利吉が居てくれた事が、嬉しくて、堪らない。
「利吉さんっ!」
大きな声で呼ぶとその人は振り向き、そして酷く驚いた表情で乱太郎を見た。
「乱太郎…、どうして…」
「だって、また来ますって言ったじゃないですか」
そう言って笑うと、利吉も笑い返してくれた。
「そう、だね」
「乗って良いですか?」
「もちろんだよ」
乱太郎の言葉に、利吉は手を差し伸べた。その手に掴まって船に乗る。神経質そうな、形の良い大きな手は少し冷たく、乱太郎の手をしっかりと握ってくれた。体温の低い利吉の手も体も、何時もすこしひんやりと感じるのだ。その手を温めるように握り返して。乱太郎はごく自然に、利吉の腕の中に納まった。
「あのね、利吉さん。今日もお土産があるんです」
乱太郎が利吉を見上げて言う。
「何かな」
「これ。昨日の続きです」
そう言って徳利を出す。悪戯っぽく笑って自分を見上げる乱太郎にそっと口付ける。触れるだけの、優しい口付け。赤くなって俯く乱太郎に、囁くように言った。
「じゃあ、行こうか」
乱太郎が頷くと、船はゆっくりと動き出した。次第に遠くなっていく桟橋をちらと見て、乱太郎は黒々とした葦の葉陰から覗く空を見上げた。真っ暗な、幽かな星の明かりすらない空だった。否、それが空だと言う確証すら、無いような気がした。
「どうしたんだい」
「何でも無いです。それより、お酒、飲みましょう」
そう言って、杯を出して促す。利吉は勧められるままに杯を受け取り、酒を舐めた。乱太郎は幸せそうに笑って、利吉の杯に酒を差す。その笑顔に、利吉も幸せになる。他愛の無い話をしながら、時折は乱太郎も酒を舐めた。静かな、幸せな時間。
さやさやと葦の葉の擦れる音と、微かな水の音以外は、二人を包んでいる深い闇に吸い込まれてしまったかのように静かだ。やがて、その葉擦れの音が途切れた。小船が葦の原を出たのだ。
「利吉さん…」
「うん」
少し酔いの回った、乱太郎の甘えた声に頷いて、小さな体を抱きしめた。この、可愛らしい口が、帰ると言わないようにと祈りながら。
「あのね、今日はもう一つ、あげたいものが有るんです」
帰る、という言葉ではない事に、安堵する。けれど、帰した方が良いのだと自分を諫める声もする。利吉は何でも無い風をして、聞いた。
「何かな」
「ちょっと、待ってて下さい」
利吉の腕をそっと解き、乱太郎は懐に手を入れた。身に付けていたので暖かくなった、滑らかな手触りのそれを取り出し、利吉の手を取った。
「乱太郎…?」
乱太郎の手の中には、髪を結ぶ為の布があった。朱鷺色の絹の優しい色合いは、乱太郎らしい選択のように思えた。
「動かないで下さい」
乱太郎は利吉の手と自分の手を繋いだ。そして空いている方の手で、その重なった手首をくるくると布で巻いて縛ってしまったのだ。
「乱太郎…」
「これで、もう離れませんから」
そう言って笑い、利吉の胸に甘え掛かる。利吉は繋いだ手を解き、小さな手をそっと握りながら、静かな声で聞いた。
「本当に良いのかい?今ならまだ戻れるよ」
その言葉に首を振る。耳の奥ではしつこい位に自分を呼ぶ声がするけれど、もう、気にしない。何よりも利吉が好きで、離れてしまう事のほうが耐えられない。利吉が手を離したことを後悔しているように、自分も帰ったことを後悔するだろう。
「もう二度と、手を離さないで下さい。私を置いて何処にも行かないで」
「乱太郎…」
多分、自分は乱太郎がそう言うのをずっと待っていたのだ。本当に帰したいのなら、一人で行ってしまうことも出来たのに、ずっと乱太郎を此処で待っていた。今日だって、自分が待っていなければ、乱太郎は帰るしかなかったのだから。自分の恋着が、乱太郎を巻き込んでしまったと、ずっとそのことを後ろめたく思っていたけれど。
乱太郎が自分で二人の手を結びつけた時に、そう思っていたのが自分だけではないのだと気付いたのだ。乱太郎の小さな体も、自分を恋う心で、離れがたい気持ちで一杯なのだと。だからこそ、夜毎に逢いに来てくれたのだ。
「長い、旅になるよ」
船はすでに葦の原を後にして、暗澹とした水の上を辷っている。行き先は知らない。ただ、西の果て、果ての海だと言う事だけだ。
「二人だから大丈夫です」
そう言ってにっこりと笑う乱太郎を抱きしめる。そうして、利吉も呟くように言った。
「そうだね。二人なら大丈夫だね」
この先に何が有ろうとも、決して二度とこの手を離さない。そう、思って握った手にほんの少し力を入れると、私もですと言うように、乱太郎の手も応えて来る。
水面は暗く、辺りの闇と溶け合ってしまって境目が無い。少し冷たくなった風に、もう、葦の原へは戻れないほど遠くへ来たのだと知る。何処へ流れ着くのかも分からない冥く長い旅は、始まったばかりだった。
終
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