夏の足跡






 「うわーん、痛いよぅ」
 玄関をくぐるなり、乱太郎が泣き声を上げた。
「乱太郎?」
 訳が分からず利吉が困惑して声を掛けたが、乱太郎は痛いよぅと繰り返して泣くばかりである。七月に入って直ぐの、臨海学校から帰ってきての事だった。




「とにかく、お風呂に入っておいで」
 利吉はそう言って、乱太郎をバスルームに連れて行った。浴槽には保湿剤の蜂蜜を入れたぬるくしたお湯が張ってある。楽になるからという利吉の言葉に、乱太郎は半信半疑の眸をしながら、それでも服を脱いだ。
 その身体を見て、利吉は泣きそうになった。あれほど白かった肌が、真っ黒に日焼けしていたのだ。否、世間で言えばきれいな小麦色と言う所だろうが、小さな水着の形に日に焼けていない肌の白さからすると真っ黒と言って差し支えない。てっきり日に焼けない質だと思っていたのが間違いだった。
「乱太郎、どうして日焼け止めを塗らなかったんだい」
「そんなの誰も塗ってなかったもん」
 小学生として、至極当たり前の答えだった。確かに、小学生はプールでも海でも、日焼け止めを塗ったりしないのだ。それに、日焼け止めを塗る事はプールでは衛生面で問題になるのだろう。
「…そうだね。とにかく少しお湯に浸かっておいで」
「はーい」
 乱太郎は小さな声で答えて、促されるままにバスルームに入った。



 楽しかったはずの臨海学校から帰ってきた乱太郎は、ずっと不機嫌そうに黙っていた。日曜日だったので駅まで迎えに行った利吉は、何か嫌な事が有ったのではないかと心配していたのだが、謎が解けてみれば他愛のない事でほっとした。
 しかし、と利吉は少し困ってしまった。跡が付くから、という理由で乱太郎が嫌がったので出かける三日前から色々と自粛して、乱太郎が帰ってくるまでの三日間、勿論大人しくしていた。そうして、乱太郎が帰ってきたら、あれをしようこれもしようと、心も身体も期待していたのに、肝心の乱太郎は酷い日焼けで、服を着ているのも辛そうなのだ。可哀相で、何も出来る筈がなかった。けれど、ずっと我慢していた自分もまた、可哀相と言えば可哀相なのだ。とにかく何とかしなくては、と、利吉は思うのだった。
 取り合えず、薬局で無添加無香料の、保湿性の高い化粧水と乳液を買った。化粧品は女性の使うものなのだが、水分も油分も抜けてしまった日焼けの跡には非常に効果が有るのだ。本当はその日の内に塗っていればこんなに酷くは成らなかったのだろうが、日焼けの手当てをする小学生は居ないのだろう。乱太郎も痛いと言いながら、二日とも確り焼いて来たらしい。それでも、解散するまでは楽しさが先行して痛みは気に成らなかったのだろう。帰って来るなり、顔を顰めたのだから。
 帰って来ると、乱太郎はまだバスルームに居た。やはりぬるいお湯に浸かっている方が楽なのだろう。利吉はリビングのテーブルの上に化粧水と乳液、そしてコットンを置くと、おやつの用意をするためにキッチンへと入った。
 幾らも経たないうちに、バスルームから小さな悲鳴が聞こえた。何時もと同じようにタオルで肌を擦ってしまったのだろう。直に乱太郎がバスタオルをそっと身体に巻きつけて出てきた。
「どう、少しは楽になった?」
 そう聞くと、小さく頷いただけで答えない。ソファーに座って、利吉の差し出した麦茶を黙って飲んでいる。まだ、大分痛いのだろう。利吉は隣に座ると、そっと髪を撫でた。
「随分焼けたからね。これを塗ると楽になるから、タオルを取って」
「…滲みない?」
 乱太郎が用心深く聞く。利吉は苦笑して言った。
「多分ね」
「多分じゃ嫌」
「でも、そのままだとずっと痛いよ?」
 利吉の言葉に乱太郎は泣きそうな顔で、恐々とタオルを取った。利吉はコットンがびしょびしょに成る程化粧水を含ませて、そっとパッティングして行った。パタパタと軽く触れて行く感触は、滲みる事もなくひんやりと心地良い。乾燥した肌は、幾らでも化粧水を吸い込んでいく。
「大丈夫?滲みない?」
「ん、気持ちいい…」
 ほっと安堵した乱太郎の声に、利吉も安心して手当てを続けた。
 小一時間掛けて、体中に化粧水と乳液を塗ると、痛みも大分楽になったようだった。だが、時間が経てばまた痛み出すだろう。後でもう一本ずつ買いに行こう、と思いながら、利吉はおやつを取りにキッチンへと行った。
 冷たい麦茶と茹でたとうもろこしを半分食べると、乱太郎はあくびをした。疲れが出てきたらしい。ころりとソファーに横になる。
「大丈夫?痛くない?」
「うん、大丈夫」
「少し眠っておいで。ご飯が出来たら起こして上げるから」
「…うん」
 優しく髪を撫でられて、乱太郎は気持ちよさそうに睛を閉じた。そのあどけない寝顔の頬にそっと口唇を落とし、冷えないようにとそっと夏掛けを掛けた。



 鮎の塩焼き、とうがんの海老餡かけ、揚げ茄子の田楽、豆腐と生海苔の澄まし汁、など利吉の作ってくれた夕食を美味しく食べると、デザートの西瓜が出て来た。わーい、と声を上げて乱太郎が早速かぶりついた。西瓜は甘く、よく冷えていて美味しい。その様子を楽しげに見ながら、利吉が言った。
「乱太郎、線香花火をしようか」
「わぁ、有るんですか?」
「うん、薬局でおまけにってくれたんだよ」
 思わずスイカを置いて聞いた乱太郎に、利吉が頷いた。乱太郎が眠っている間にもう一度行った薬局でくれたのだ。小さな線香花火だけでは詰まらないかと思ったのだが、乱太郎は嬉しそうだった。
「私、線香花火大好き」
「それじゃ、食べたらやろうか」
「わーい」
 利吉の言葉に頷いて、乱太郎は西瓜に専念した。
 水を汲んだバケツを持って、二人はベランダに出た。花火を持つと、利吉が火を点けてくれた。
「落ちると危ないから、バケツの上でね」
「うん」
 かすかな音を立てて火花を散らし始めた花火を、乱太郎はそっとバケツの上に動かす。利吉も自分の分を取り、火を点けた。二つの小さな火の花が咲き始める。部屋の電気を消して有るのでベランダは暗く、バケツの水も火の花をその暗い水面に映した。
「きれい…」
 乱太郎が小さな声で言う。小さな花はそれでも次第に大きくなり、持っている紙縒りの先に蕩けてしまいそうな色の火の珠をつくる。火花も殆んど散らなくなると、火の珠が雫になって落ちるのだ。乱太郎はその様子をじっと見ている。じゅっと音がして花火が終わる。乱太郎は次の花火を取り、利吉が火を点ける。蕾が開くようにして小さな火花が散り始めるのを、乱太郎は静かに眺めている。
「小さいけど、一生懸命って感じがするから、私大好き」
「そうだね」
 呟くような乱太郎の言葉に、利吉も小さく頷いた。



 後片付けや明日の準備をしてから、利吉も風呂に入った。やっぱり、乱太郎が居る事が嬉しい。お湯の中で身体を伸ばしながら、しみじみとその事を噛み締める。直ぐに帰って来る事が分かっていても、何とはなしに寂しかった。例え寝顔を見るだけでも、朝の短い時間に少し言葉を交わすだけでも、それがとても自分を満たしていたのだと、改めて思うのだ。やっぱり、結婚して良かった。いろいろと邪魔される事も多いけれど、側に居て、毎日顔が見られるのは幸せな事なのだ。そう、幸せを噛み締めながら、利吉は風呂から上がった。
 寝室は、小さな明かりが付いていて仄明るい。利吉は静かに寝室に入った。乱太郎はベッドの上で静かな寝息を立てていた。薄い夏掛けは踏み脱がれている。
「あぁ、風邪を引いてしまうよ」
 小さく呟いて、夏掛けを直そうとして、魔が差した。眠っている乱太郎の口唇にそっと口付ける。本当はそれだけで済ます積もりだったのに、柔らかな口唇の感触と、肌の甘い香りに押さえが利かなくなった。柔らかく、幾度も口唇を啄ばんでいると、乱太郎が身動ぎをした。
「う…ん…」
「乱…」
 起こしてはいけないと思いつつも、名前を囁いていた。口唇を重ねて、ちらと口唇を舐めると、乱太郎の小さな手がもがき、利吉を押しのけようとした。
「ぃや…、利吉さん…」
 半ば眠っている声で乱太郎が言う。
「少しだけだから、ね」
 利吉は宥める様に囁いて優しく口付けた。ゆっくりと、警戒を解きほぐす様に口唇を吸い、擽るようにそっと舐める。
「ふっ…、ん…」
 甘い、小さな声が洩れて、乱太郎の腕がするりとしがみ付いてくる。夢現のように乱太郎が僅かに応えて来ると、利吉は甘い笑みを浮かべて深く口付けた。驚かさないように、優しく舌を絡めては軽く吸う。何時しか口付けは激しいものとなっていて、乱太郎は濡れた音を立てて貪られている事に気が付いた。けれどその時には抗う意志など残っていなくて、ただ、利吉にしがみ付いているしかなかった。
「はっ・・・、あ」
「乱…」
 熱く、甘い利吉の声に背中がゾクリとして体が熱くなる。けれど、なんとなく背中がひりひりするような気がして仕方が無い。
「ダメ、利吉さんいや…」
「もう少し。キスだけ、ね」
 囁かれて口唇が触れると、拒みきれない。触れた口唇から甘く蕩けてしまいそうだった。何時しか乱太郎も夢中で口付けに応えていた。利吉の指がそっとパジャマの前をはだけ、利吉の口唇が、柔らかく頤から首筋へと触れていく。擽ったような甘い感覚と一緒に、僅かにひりひりとした痛みが走る。やっぱりダメ、と言おうとした時、利吉の手がぴたりと止まった。ああ、やっぱり止めてくれるんだ、と安堵した乱太郎が睛を開けると、薄明かりの中で利吉がじっと自分の胸を見詰めている。その睛に光るものを見つけて、乱太郎は小首を傾げた。
「…?」
「こんなに真っ黒に焼いちゃって…。可愛い乳首が何処に有るのか分からないじゃないか…」
 何を言うかと思ったら、である。どうしてそんな変な事で泣くのだろうか、と乱太郎は思わず眉を顰めた。
 白い肌に滲むようにして浮かんでいた小さな桜の蕾のようなそれが、焼けた肌の色に沈んでしまっているのである。もちろん、分からないなんて事はないのだが、利吉にはかなりの衝撃だった。肌の滑らかさは変わらないけれど、あの白い肌が戻って来なかったらどうしようと、本気で心配になってしまうのだ。
「ああっ、可哀相にっ」
 叫ぶようにそう言って、利吉がぎゅうっと乱太郎の身体を抱き締めた。瞬間。
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
 と、悲鳴が上がった。
「いったぁぁぁぁいっ!痛い痛い痛いっ」
 大丈夫?という間もなく、利吉はベッドから蹴りだされた。乱太郎はぎゅっと拳を握って口唇を噛んでいる。抱き締めた時に、痛み始めた肌にパジャマが思いっ切り擦れてしまったらしい。
「大丈夫かい?」
 伸ばした手はぱっと振り払われた。乱太郎は涙を滲ませて利吉を睨み付けた。
「やっ!もう、触んないでっ!」
「乱太郎〜」
「私、痛いから嫌だって言ったのに。利吉さん、自分がよければ私の事なんてどうでもいいんだぁっ」
 わぁっ、と泣き出してしまった乱太郎に、利吉はおろおろと謝った。
「ごめんよ、そんな積もりは無かったんだよ。でも、久し振りだったし、乱太郎が可愛くて我慢出来なかったんだよ」
 可愛くて、の所で乱太郎はちらっと利吉を見た。利吉は触れていいものかと迷っているらしく、中途半端に伸ばされた腕が所在無げである。そんな利吉を見て、急に、甘えたい虫が騒ぎ出した。利吉に甘えたい。うんと理屈の通らない我侭を言って、思い切り利吉を困らせたい。普段はなるべく、利吉を困らせないようにと我慢している分、そうなってしまうともう止められないのだ。
「嘘だっ。本当に可愛いならこんな酷いことしないもんっ」
 更に言ってわぁっと泣く。
「利吉さんは私の身体だけが好きなんだぁっ。気持ちなんてどうでも良いんでしょっ」
 意味はよく分からないけれど、ドラマで女の人がよく言っている言葉を言ってみる。
「ら、乱太郎…」
 利吉は、宥める言葉一つ、違うと言い訳することすら出来ず、ただおろおろと困っている。
「もう触らないでっ。あっちで寝てっ」
 伸ばされた手をぴしゃりと跳ね除けて言うと、ぎゅっと抱き締められた。
「…ごめん」
 他に言葉も無くて、ただ、抱き締められた。パジャマの触れている所はひりひりするけれど、痛くは無い。
「やだっ、離してってばっ」
「乱太郎が好きだよ。だから許してくれるまで離さない」
「えっちな事したいだけなんでしょっ」
「そんな悲しい事を言わないでくれよ」
 利吉の低い、悲しげな声が耳元でした。
「乱太郎だから、したいんだよ。他の誰ともしたくない。だから、そんな酷い事は言わないでくれ」
「…利吉さん」
「乱太郎が好きだよ。身体だけじゃなくて、乱太郎の全部が。抱きたいだけだったら、結婚なんてしないよ」
「利吉さん…」
 抱き締められた腕からも、耳元で聞こえる声からも、乱太郎は利吉の愛情を感じてゆっくりと満たされていく。利吉が持っている愛情を全部引き出して思う様その甘さを貪ってやっと、甘えたい虫は大人しくなった。
「許してくれる?」
「…うん」
 利吉の言葉にこっくりと頷くと、優しく口付けられる。仲直りのキスは甘くて、自然にに深く貪るようなものになった。幾度も口付けられて夢見心地になった乱太郎の耳に、利吉が囁いた。
「あのさ、乱太郎。触るのがダメだったら、一寸だけ口でして貰えるかな。キスしてる時の乱太郎、凄く可愛くて、やっぱり我慢出来そうにないんだよ」
 一瞬、何を言われたのか分からなかったが、利吉の手が乱太郎の手をそこに導いた時、乱太郎は我に返った。手に触れたのは、何時もだったら乱太郎を酷くドキドキさせるものだったが、今日はその熱さを感じた途端にひりひりとした体の痛みが蘇った。
「利吉さんの馬鹿ぁっ!やっぱり私の体が目当てなんだっ!」
 乱太郎は迷わず握った拳で利吉を叩き、もう一度ベッドから蹴落とした。そしてそのまま利吉を寝室の外へと押し出し、急いでドアを閉めて鍵を掛けた。
「らっ、乱太郎!」
「やっぱり反省してないじゃないっ。もうっ、利吉さんなんて嫌いっ」
「ごめんよ、でも乱太郎が可愛すぎるんだよっ」
 ドアの外では利吉が必死に言い訳している。乱太郎は素っ気無くあしらいながら、本気で膨れた。
『本当は私だってしたいんだもん』
 ずっとしていなかったのは自分だって同じなのだ。でも、それは恥ずかしいから利吉には内緒なのだ。
 結局、体の痛みに耐えかねた乱太郎が日焼けの手当てをする代わりに一緒に眠ることを承知したのは、それから一時間も経った頃だった。
 夏が残した今年最初の足跡は、乱太郎の日焼けと、犬も食わない夫婦喧嘩だった。












                                 TEXT:利太郎様   
【利】
 えっと、『夏のあしあと』を送ります。
なんだか、利吉さんがどんどん壊れていってしまって、とても怖いです。
でも、それ以上に、物凄く楽しく書いている自分が、もっと怖いです。
利吉さん、大好きなのにおかしいなぁ…。

それでは、また。

【犬】
り、利吉さんがば○に…!!(大爆笑)
私のイメージする利吉さんはかっこいいってよりか
青二才!!なんですけど、ダメな利吉さん…惚れ直してしまう。
(しょーがないなもう。)
初心者の方は是非掲示板No361〜364も合わせてお楽しみくださいね!


…UPとんでもなく時間かかってしまってすみませんでした。とほほん




←玉