鬼 蜘 蛛 丸 の 災 難
 



 例によって溺れたお頭を助けて、珍しく風邪を引いた。しくじったな、と言うのが正直な感想だった。だが、幸いにも金曜日の事で、休みの土日と寝ていられると思うと気が楽だった。
 だが、熱を出して寝ていても放っておいて貰えないのは、どうしてだろうか。朝一番に小松田からの電話で起こされて、頭痛を堪えながら風邪っ引きの説明をした後、再び布団に潜り込んだ。鎮痛剤は飲んだけれど、熱さましの方が良かったかもしれない。そんなことを思いながら、熱が出ている所為のだるさと関節の痛みにごろごろと寝返りを打つ。安楽を意味する眠りはなかなか訪れず、ようやくうとうとと眠りかけた時に今度は誰かが、部屋の扉を叩いて起こした。
「おぅ、なんだ」
「鬼蜘蛛丸の兄ぃ、お客さんです」
 と、間切の声がした。
「こっちは具合が悪くて寝てるんだ。断ってくれ」
 がらがらの声で言ったものの、間切は困ったように押してきた。
「えー、そりゃムリっスよ」
「なんでだ」
「だって小松田さんですもん」
 その言葉に、鬼蜘蛛丸はすべてを諦めて仕方がなく起き上がった。半纏を羽織って部屋を出ると、廊下には間切が気の毒そうな顔をして立っていた。ご苦労様です、と大きくその顔に書いてある。鬼蜘蛛丸は失せろ、と睛で言って間切を追い払った。寮生活というのは本当に落ち着かない。この時ばかりは出て行った義丸が羨ましかった。
 寮の玄関に、小松田は立っていた。後ろの扉は開けっ放しで、風が入ってきて寒い事この上ない。鬼蜘蛛丸はさらに熱が上がってくるのを感じながら、小松田に聞いた。
「お早う御座います。一体、どうしたんですか」
 頭痛のために眉を顰めて言った彼に、小松田は小首を傾げてのんびりと考え考え言葉をつないだ。
「あのですねぇ、今日、釣りに行く筈だったでしょう?そのつもりでご飯一杯炊いちゃったんですぅ。でも、第三協栄丸さんが風邪ひいちゃって中止になっちゃったでしょう。だからボク、お見舞いに行くことにしたんですけど、でもご飯一杯炊いちゃったんで、お結び作る事にしたんです。で、折角だから食べてもらおうと思って、持って来たんですぅ。皆さんで食べてくださいね」
 そう言って、ずっしりと重い紙袋を渡された。
「それじゃぁ」
 そういって、呆気に取られている間に小松田はお辞儀をして帰って行った。
 仕方が無いので、頭痛を堪えつつ、丁度通りかかった重を呼びつけた。
「ああ、重か。小松田さんがお結びを持ってきてくれたから、台所に持ってってくれ。ああ、ほら、御頭が風邪を引いて駄目になっただろう。それで、今日食べる積もりで作ってくれた奴だ」
「へー、まめな人ですね」
 と、感心したように紙袋を受け取って言う。別にまめなんじゃない。お結びの処理に困って持って来ただけだ、と言う言葉は飲み込んで。
「俺は具合が悪いから寝る。誰も取り次ぐなよ?それから後でスポーツドリンクの大きい奴を買ってきてくれ」
「直ぐに持って行きますよ。熱が有るときはあれが一番ですから。食欲とか、有りますか?」
 先輩への対応にはすっかり慣れた細やかな対応をありがたく思いながら、鬼蜘蛛丸は首を振った。
「今のですっかり無くなった…」
 ぐったりと言った鬼蜘蛛丸に、重も力の抜けた笑みを返してお大事に、と言った。よろよろと自室に戻っていくその後姿を見送って、重はキッチンへと向かった。
「さて、と。冷蔵庫にポカリあったかなぁ。お結びは、朝ごはんに食べて…。ああ、そうだ。舳丸誘って堤防に釣りに行こうっと」
 お結びの数を数えながら、重はにこにこと今日の予定を変更する事にした。



 うとうとと眠って目が覚めると、枕元にスポーツドリンクのペットボトルとゼリータイプの栄養補助食品と風邪薬が置いてあった。鬼蜘蛛丸は有難くゼリー状のそれを飲み、咳で薬を飛ばさないように気を付けて飲んだ。そうしてまた、布団の中に潜り込んだ。ぼやぼやと頭も身体も熱くて、だるい。頭痛と関節の痛みも激しい上に、咳をするたびにそれが二割増しに成るのだ。それでも、薬の所為で眠気が差してきた。ああ、眠れるなぁ、と思った瞬間だった。
 ごんごんと扉が叩かれ、航が顔を出した。
「なんだっ」
「あ、良かった。起きてたっすね」
 誰も取り次ぐなとあれほど言っておいたのに、また誰か来たのだろうか。と、航はにこにこと側に来ると
「兄ぃ、咳が酷かったから、これ咽喉に巻くといいっすよ」
 ざくざくと千切りにした葱をガーゼで巻いたものを差し出した。そして、鬼蜘蛛丸が咽喉にまくのを手伝って、更に手拭を上から巻きつけた。すごく、葱臭い。思わず顔を顰めた鬼蜘蛛丸に、航が言った。
「ああっ、葱臭いのが効くんっすから我慢してください。直ぐに気に成らなくなりますからね」
 それからお大事になすってくださいと言って、部屋を出て行った。横になって葱臭いのを我慢していると、確かに何となく咳の回数が減ったような気がする。それは有り難いのだが、眠気の方がすっかり飛んでしまった。直ぐに乾く咽喉にスポーツドリンクを流し込み、鬼蜘蛛丸は目を閉じてひたすら眠りを待っていた。
 だが、ひたすら眠りたい彼を静かに寝かせてくれる積りが神様には無いらしかった。その後も、うとうとと眠りかけるのを見計らった様に、誰かが何かしら風邪に効くと言うものを持ってくるのだ。結局、ゆっくりと寝る事はおろか、横になっていることも儘成らなかったために、夜になっても熱も頭痛も朝と変わらなかった。ただ、葱だけは効いたようで、咳は大分治まったのだけれど。



 夕方、寮が妙に静かになった。普段だったら訝しく思うところだが、風邪の所為で疲れ切っていた彼は有難く思っただけで眠りに落ちた。だが、鬼蜘蛛丸は自分の神様が災難の神様だという事をすっかり忘れていたのだった。
 ぐっすりと寝ていたところを激しいノックで叩き起こされた。
「何だ?」
 と、暈りする頭で身体を起こした所に由良四郎と疾風がどかどかと入り込んできた。
「おう、風邪だってな。大丈夫か?下の奴らが心配してたぜ?」
 おかげさまで悪化しましたとは言えず、苦笑した。
「や、なに。風邪なんてなぁ酒飲んで寝ちまうのが一番だぜ。ほれ、土産だ」
 そう言って疾風が差し出したのは純米大吟醸の一升瓶である。
「どうしたんですか」
 げほげほと咳込みながら聞くと由良四郎がからからと笑った。
「いやぁ、疾風の奴がなぁ、今日は魚を食べ損ねた、なんてぼやくもんだから、ちっと遠出して鮨を食いに行ったのよ。そしたら其処で出た地酒が美味くってなぁ。つい酒蔵まで行っちまったんだよ」
 それで、一升瓶なのかと溜め息を付く。また、げふんと咳き込んだのを見て、疾風がすかさず言った。
「お、咽喉がガラガラじゃねーか。こいつで消毒した方がいいな。おーい、誰か居ないか」
「へいっ」
 廊下に向かって声を上げると、直ぐに誰かの返事が有った。
「コップ三つ持ってきてくれ。蜘蛛の部屋だぞ」
「はいー」
 その言葉に鬼蜘蛛丸は眩暈を覚えた。
「あの…」
 寝たいんですが、と言う前に、二人は蒲団の脇にどっかりと座ってしまっている。どうしたんだ、と言う顔をされて、力なく首を振る。酒を飲むと成ったら、誰も言うことなんか聞かないのだ。
「お待ちどうです」
 と、航がコップと殻つき落花生を添えた皿を盆に載せて持って来た。と、蒲団の上に座っている鬼蜘蛛丸を見ておやっと言う顔をした。
「あ、兄ぃ具合よくなったっすか。葱は熱も取るんですねぇ」
 などと感心をして頷いている。具合なんてちっとも良くないのだが、酒を飲むと思われては仕方が無い事だろう。航は酒の栓を抜き、コップに注いで回る。と、疾風が落花生を摘みながら機嫌よく言った。
「航、お前も飲むか?」
「へいっ。喜んでお相伴させて頂きますっ」
「よし。コップ持って来いよ」
「はいっ」
 航が大急ぎで自分のコップをもって来て、酒飲みの仲間に入った。仕方なく鬼蜘蛛丸もコップに口を付けたが、咽喉に滲みるし味なんか分らないし、熱の所為で回り方も変だった。この上吐き気まで加わっては睛も当てられないと、こっそり溜め息を付いた。こうなったら、早く飲み終わってくれるのを祈るばかりである。だが、そうそう災難は鬼蜘蛛丸を話してくれる積もりは無いようで。
「あれぇ、兄ぃ、もう良いんですか」
 と、重が顔を出した。鬼蜘蛛丸が渋い顔をするのにも気付かず、重はご機嫌である。
「いやぁ、小松田さんのくれたお結び持って、皆で釣りに行ったんですよ。そうしたらすっごい大漁だったんです!小松田さんのお結びってなんか魔法が掛かってるんですかね」
 と、感心したように頷いている。確かに、釣り船を出しても小松田が一緒だと洩れなく大漁なのだ。新鮮な魚と聞いて、疾風の相好が崩れた。
「で、魚はどうした」
「へい。今、舳丸と間切が下でやっつけてますよ」
「そうか。こっちへ持って来てくれ。お前達も一緒に飲め」
 重の言葉に機嫌よく疾風が言ったが、重は少し困ったような顔をした。それに気付いて由良四郎が聞いた。
「どうした」
「いえ。お誘いは有り難いんですが、俺達が頂いちゃうと兄ぃ達の分が…」
 その言葉に一升瓶を見ると残りも大分少なくなっている。が、疾風は笑って言った。
「心配するな。台所にまだ有る筈だ。二人で二本づつ持って来たからな。それより天婦羅は有るのか」
「もちろんですよ。刺身ばっかりじゃ詰まんないですからね」
「そうかそうか」
 昼間鮨を食べたので、刺身以外も欲しかったのだ。機嫌の良い皆とは裏腹に、鬼蜘蛛丸は酒の残りを見てやっと終わると思ったのに、また長くなるのか、とうんざりした。
「じゃあ、出来たら直ぐ持ってきますから」
 と、重が部屋を出ると、航がその辺を片付けだし、畳んであった折り畳みのテーブルを広げ始めた。
「おい、何をしてる」
「いえ、だって刺身やら天婦羅が来るんだったらテーブル出した方が良いと思いまして」
「そりゃあ、そうだなぁ」
 と、由良四郎が頷いて。直ぐに、二つ三つの揚げ立ての天婦羅を盛った皿を持って、重が戻ってきた。
「取りあえず上がった分だけ…」
 だが、その言葉が終わらないうちに、疾風と由良四郎の手が伸びてきて皿は空っぽになってしまった。思ったよりも腹が減っていたらしい。
「うん、美味い。だが少しづつってなぁまどろっこしいな。よし、こっちで揚げろ」
「はっ?」
 思いもしない由良四郎の言葉に重が睛を丸くする。
「何時も使うお座敷フライヤーが有るだろう。それ、持って来てここで揚げろ。そうすりゃあ、揚げたてが食べられるからな」
 確かに、船の上で使っているお座敷フライヤーが有るけれど、こんなに人口密度の高い部屋ではどうかと首をひねった。だが、すでに酔っぱらい始めている人に、正論は通じない。逆らうだけ時間と労力の無駄だという事を心得ていたので、重はただはいと頷いて、キッチンへと向かった。鬼蜘蛛丸の蒲団は部屋の端へと移動させられ、代わりに折りたたみのテーブルが真ん中に据えられた。じきにお座敷フライヤーが持ち込まれ、油の匂いが部屋の中に広がった。すでに頭痛も熱も限界だったのに、鬼蜘蛛丸は更に吐き気と胸焼けに襲われた。
「あの…」
 もう一度声を掛けると、すっかり出来上がった疾風がうんうんと頷いた。
「こっちの事は気にしなくていいぞ。勝手にやってるからな。お前は寝てろ」
 だが、既に、そりゃあもうこれ以上は無いと言うくらい、勝手にやっている。鬼蜘蛛丸は皆を追い出すのを諦めて、蒲団に潜り込んだ。だが、どんなに蒲団を確り被っても、酒の匂いと揚げ油の匂いからは逃げられない。鬼蜘蛛丸が布団の中でこっそり涙した時、蜉蝣の大きな声がした。
「何を遣ってるんだ、お前達はっ!」
 どうやらキッチン以外でフライヤーを使っているのに腹を立てているらしい。疾風がすっかり酔っぱらった声で返事をする。
「いやぁ、俺と由良四郎の土産の酒と、重たちの戦利品で、鬼の奴の見舞いがてら一杯、ね」
「鬼はどうした」
「ああ、もう寝てますよ」
「だったら」
 ああ、常識派の蜉蝣の兄さんなら皆を追い払って静かに寝かせてくれるかも知れない、と鬼蜘蛛丸は密かな期待を抱いた。だが聞こえたのは、とっとと出て行け、と言う言葉ではなく、
「俺も混ぜろ」
 だった。鬼蜘蛛丸は布団の中でがっくりと肩を落とした。もう、こうなったら宴会は朝まで続くだろう。
「もちろんですよ、ささ、座って座って」
「この酒、マジで美味いっすよ」
 などと賑やかな声が聞こえ始め、鬼蜘蛛丸は一人、布団の中で泣きながら熱と頭痛と吐き気と胸焼けを堪えていた。何時になく長い夜になりそうだった。












         
                 TXIT : 利太郎 様 


ハーイ!お待たせしました。むつごい便入荷いたしました〜。
ミヤイリサン(消化薬)をご用意の上、お召し上がり下さいませ(笑)

…それにしても。
アハハハ!!鬼蜘蛛丸かわいそう〜〜〜vvvvv
(↑喜びすぎです。)
もうもうもう。こんな状況最悪ですよね!(喜々)
今回も利太郎さんならではの美味しそうな描写が一杯でしたのに
鬼蜘蛛丸に感情移入しちゃったら、なんというかちょっと
…こみあげるものがありましたが。
皆さまはいかがでしたでしょうか?


利太郎様。どうもご馳走様でした。えく。



→港